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■時計草を育てて、あらためて学ぶ!

 植物の生育も、企業経営も、何事もバランスが大切
■窒素、リン酸、カリをバランスよく施肥
 
IMG_20200513_時計草(パッションフルーツ)  3年前、庭先に植えた二本の時計草(パッションフルーツ)が今年は6個実をつけました。秋の穫り入れが楽しみ。最初の年は2個、去年は1個。植物を育てるのは難しいですね。人間がバランスよく栄養をとらないと体調を崩しやすいように、植物も適切に肥料を与えないとすくすく元気に育ってくれません。
 植物を育てるのに欠かせないのが肥料の三要素のチッソ(N)・リン酸(P)・カリ(K)。葉緑素の素となるNは葉をすくすく大きく茂らせ、Pは花と実を肥らせ(特にトマトなどの果菜類に大切)、Kは根や球根を肥らせる(芋類やチューリップなど球根類に必須)のに効果があります。
パッションフルーツ かと言って、N・P・Kを過剰に与えると拮抗作用が起こり、植物の生育に不可欠の鉄やマグネシューム欠乏を誘発し、葉が黄色くなり枯れてしまいます。「過ぎたるは及ばざるが如し」ですね。植物を大きくきれいに美味しく育てるには、その植物に合った効果の比率で栄養(肥料)を与えることが有効。つまり、バランスが大事ということです。 
  

■資本と経営と労働がバランスよく機能
 バランスは企業経営にも当てはまります。企業経営の三要素は、資本(出資者=株主)と経営(経営者=取締役)、労働(従業者=社員)。出資者は事業資金を提供し、経営者はその資金で事業を展開し、従業者はその事業展開に労力と知恵を提供します。この三要素が、企業が置かれた状況に応じてバランスよくうまく機能して企業は利益(黒字)を上げることが出来て、この利益は、配当、報酬、給与という形で出資者、経営者、従業者に分配されます。
 三要素が十分に機能している時は経営は順調に行くのですが、そんなにうまくいかないのが現実です。だから、三要素のうちの一つが不足する(厳しい状況にある)時は他の二つが1.5倍の力を発揮しカバーしながら切り抜けなければなりません。二つの要素がダメになればその行先には破綻の門が待ち受けています。企業は三要素が上手く機能して利益を出してこそ長く存続でき、それにより三者は安定したより豊かな生活が得られ、企業を通じて社会貢献ができるのです。
 
■企業の社会貢献
企業の社会貢献とは、「利益を上げて税金を国に納める」「有形(商品)・無形(技術・知識)のサービスを社会に提供する」「雇用を維持・拡大する」の3つにあると19さんは思います。そして企業は、黒字経営を実現してこそ、社会に貢献できるのです。

■経営者の使命
経営者の使命(役割=責任)とは、利益を上げて自己資本(内部留保)を増やし、財務体質を強化して持続可能な企業に仕上げることだと19さんは思っています。大企業・中小企業を問わず日本の優良・有力企業の大半は、バブル崩壊、リーマンショックの教訓から内部留保の蓄積に励み、財務体質強化に取り組んできました。政府は景気拡大策として企業に内部留保を吐き出すように要請していますが、企業が危機に陥った時、政府が一民間企業を助けることはまずありません。
 だから、企業は、(内部留保を必要以上に蓄積する必要はないが)、コツコツと内部留保を蓄積し、いま巷で囁やかれているような1930年代の世界恐慌以上?のコロナ不況にも耐えうるだけの力を蓄えておく必要があるのです。その備えを怠ったり、十分な備えができなかった企業は、まさかの時に、右往左往せざるを得なくなります。
 
■自分の城は自分で守る

 日本の賢い企業は、これまで蓄積してきた豊富な内部留保を活用して、コロナ非常事態の逆境をチャンス到来と捉え、新たなビジネスモデ
ルを創造しながら更なる発展を遂げていくものと考えます。日本の企業の多くは軟(やわ)じゃないんです。「黒字を続け、内部留保を厚くする」。これが企業の持続可能な発展の基本だと19さんは思っています。雨降りに傘を差し出してくれる銀行や取引先はまずありません。企業経営は自己責任なのです、
 トヨタ自動車の中興の祖といわれる石田退三氏が言っています。「自分の城は自分で守れと。先月、「車をつくる会社」から「モビリティカンパニー」にモデルチェンジすると豊田章男社長が表明したトヨタの強さと凄さの原点はここにあるのではないでしょうか。(2020.6.19)
19さんのHPもどうぞ ⇒ http://hosjas.com


■「本気」という詩との出会い

    本  気錦江湾・桜島の朝日

本気ですれば  たいていな事はできる 

本気ですれば  なんでも面白い

本気でしているとたれかが助けてくれる

人間を幸福にするために

本気ではたらいているものは

みんな幸福で  みんなえらい 

(後藤 静香 著 「権威」より抜粋)


■【本気との出会い】     (2010/4/1執筆)

私がこの詩に出会ったのは、今から25年前の1985年。東京三鷹にある地方銀行協会での支店長研修。新米支店長の私は、ここで一週間、全国の地方銀行の支店長さん達と一緒に"支店長としての心構えやマネジメント"を学んだわけですが、そこで、ある大手銀行のベテラン支店長の"明るく大きく考えよう"と題した体験講話があり、その中で紹介していただいたものです。この詩に心をひかれた私はその場でこの詩集を一冊買いました帰りの電車の中で取り出して読んでみると、日ごろ思っていたことが、魔法のような言葉で見事に表現してあり、たちまちその詩のとりこになりました。そこで私は、この感動を周囲のみんなに伝えようと、支店に帰るとすぐさま出版社に電話を入れ、私費で200冊を注文していました。(ちょっと衝動的な面がある七福神の育さんです)


■詩がお客様の共感を呼ぶ

その200冊の本は、お取引先訪問のご挨拶代わりに差し上げたり、銀行窓口にご来店されてこの詩に興味を示された方々にプレゼントして大変喜ばれ、新米支店長の株も上がったものです。そこで私は、大きな模造紙を2枚買ってきて、習字の上手い女子行員のTさんとkさんに、筆で大きく書いてもらい、1枚は来店客向けに、ロビーからよく見える支店長席の後ろの壁に、もう1枚は通行人向けに、銀行正面中央のショーウインドゥの外窓に掲示することにしました。(そう、よくお寺さんの門に張ってある"今月のことば"って感じですね)


■地域密着活動の始まり

これがご来店の皆さまや道行く人々の目を引くようになり、私は在任期間中の2年間、毎月、詩の内容を変えて掲示する羽目になりました。このことが、私が、「銀行という人の集まる場を活用して地域とのかかわりを深め、地域の発展に役立ちたい」と、当時としてはユニークで様々な地域密着活動を展開したきっかけでした。私と支店行員で積極的に取り組んだこの活動は、次第に地域の話題を呼び新聞などマスコミにも取り上げられるようになり、全国金融専門業界紙「ニッキン」の「地域密着貢献賞」を受賞するところとなりました。


■「本気」の詩が、ある倒産会社社長の胸を打つ

ある日の午後。融資窓口の椅子にかけ、私の後ろの「本気」の詩を手帳に一生懸命書き写している初老の男性が目につきました。よく見ると、1か月ほど前に倒産した取引先の社長さんでした。私はそばに行き声をかけ応接室に案内すると、その社長さんは、座りざま、「支店長、私は、会社を守るのに本気じゃなかったんだね。支店長があんなに注意してくれたのに・・・。自分が甘かった。ほんとにわきの甘いお人好しだったんだね。この詩を見てガツンと頭を殴られたようなショックだよ。この詩をしっかり胸に刻んでおこうと思ってね。写していたんだよ。支店長、今度は本気で仕事に取り組んでみるよと真剣なまなざしで言われました。

「社長、社長がその気なら、またやり直せますよ。"人生明るく大きく考えよう"ですよ。倒産といったって、立ち直れないような借金じゃないじゃないですか。技術があるじゃないですかこの詩集を社長にプレゼントします。頑張って下さい。」と言って、私用の最後の一冊を渡しました。

それから2ケ月後、I次長が私のところに駆け込んできて、「支店長、倒産した○○会社の社長さんが来られて、"お前んとこの支店長だけには迷惑はかけられん。俺ガンバル!と伝えといてくれ"と言って融資金を全額返済して帰られましたとのこと。おかげで私は、この支店に在勤中、1社たりとも不良債権を作らずにすみました。それもこれも、この詩のおかげです。 


■後藤 静香 著 「権威」の中から好きな詩を紹介

紹介した詩は、大正時代に書かれた、後藤 静香という人の「権威」という詩集にあります。この詩集には、心に響く、勇気づけてくれるたくさんの詩が掲載されており、私は今でも時々取り出してみては読んでいますその中で私の好きな詩をを紹介します。なお、この本は、もう書店では見かけません・・・。 


   楽しみ玄関先に咲く紅椿

種をまくときは 種まきが楽しみ

草をとるときは 草とりが楽しみ

虫がついたら  虫とりが楽しみ

実ったら とりいれが楽しみ

(後藤 静香 著 「権威」より抜粋)

   

 

  

 

玄関先に咲く白椿 旅人の目       

上っている友が悦んでいう

「誰をみても善い人ばかり

何をしても都合がよい

わたしのような幸福者はない」

下っている友が悲しんでいう

「誰をみても悪いひとばかり

何をしても都合が悪い

わたしのような不孝者はない」

上りの旅と下りの旅とは眼がちがう

(後藤 静香 著 「権威」より抜粋)  

 


   【後藤 静香(ごとう せいこう)】

  1884(明治17年)~1969(昭和44年)

 大分県生れ。大正から昭和にかけての社会教育家。

 生涯に創刊した月刊誌21種、その多くは一人で執筆し、

 その最盛期には購読者百万人をこえたということです 


 (鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎)


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■誠実に生きる/義父母の生涯(後編)

 前編より続く⇒ http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-40.html 
                          (2011/8  執筆)
義父は仕事柄、たまに新聞にも顔を出していましたが、照れ屋の義父はそのことを何も言わないので、家族も周囲の人から教えられ、新聞を探し出してあわてて読んでいました。
そんな義父が、珍しく、自分から七福神の育さんにそっと渡してくれた新聞記事がここにあります。おそらく、自分たちの生き方をそれとなく教えてくれたのだと思っています。七福神の育さんにとっては、何物にも代えがたい宝物で、時折取り出して読み直しています。

■亭主の好物”煮込みうどん” ~読売新聞から~
‘煮込みうどん”それも私が自分で作った手打ちうどんしか食べません。義母の新聞紹介記事 娘のころ母が作っていたのをみようみまねで 作ったのが始まりで、それ以来、日曜日には必ずつくっています。
小麦粉に塩を入れ、耳たぶ位の軟らかさになるまでこね、何時間かおいておくのがいいようです。それを伸ばして、切って、ゆでます。これをカツオとコブのだしに肉とタマネギのいためたのと一緒に入れ、薬味にネギを添えた何となくゴチャゴチャしたのが大好きですね。
「まあ、お父さん、そんなに食べていいの」と、言いたくなるほど食べます。だいたいめん類が好きなんですけど、スパゲティだけは「あれは油でこねてあろうが・・・」と言って食べてくれません。
(福岡県警/博多警察署長宮崎勇行夫人 宮はまよさん)
-1975年10月21日読売新聞朝刊掲載-
義母はことのほか料理が好きで、いつも手料理を食卓いっぱいに作ってごちそうしてくれていました。義母の亡くなる前の晩も、義母は娘(七福神の育さんの妻)と一緒に夕食の手料理を作りながらきゃあきゃあ楽しそうにしていたそうです。
その義母に見習い、七福神の育さんの二人の娘たちも料理をつくるのが好きで、家ではよく手料理をふるまってくれますし、4歳になる孫も、炊事場にやってきて料理を作る手伝いを今からしているんですよ。
三歳の時、泥水を飲んで一週間高熱を出して生死の淵をさまよい九死一生を得た義父は、食事にはものすごく気をつけておりました。義母の手料理が健康の源だったようです。

■誠実、仕事はきびしく・・・~毎日新聞から~
      福岡・中央署長を勇退する 宮勇行氏(56)
まやかし、はったり、それにへつらいもおよそ縁遠い。義父の新聞紹介記事   
「誠実」という言葉がこの人ほどぴったりする人は少ない。 
三十三年、警部昇任試験の時、本部長の口述試験で自分の長所と短所を問われ、「長所は、人の意見や話に率直に耳を傾け、受け入れる。短所は”腹”で仕事をするのが不得意でなので修業を要する」と答えたそうだ。
それから20年。”腹芸”はとうとう”定年”jまで修行足らず。 
「でも、これで良かったと思っています。ごまかしやはったりは長続きしない。自分に正直なのが一番いい。信頼もそこからしか生まれません。」
一線では八年余と捜査二課が長く、汚職事件など多く手掛けた。「仕事には厳しく緻密」「曲がったことが大嫌い」
当時の部下の宮評。
捜査二課長も含め事件の中枢畑にいただけに夜中の電話報告だけではなく記者連中にの夜討朝駆けでずいぶん私生活を脅かされた。だが、いつ訪れてもいやな顔を見せない。これには”強心臓”を自負する事件記者も恐縮。
「夜も寝ないで取材に来るのに捜査上言えない事がある。心の中ではいつも済まないと思っていました。せめて応対だけでも誠意を尽くさねば・・・」---。
陸軍工科学校(神奈川県)を出て終戦の年まで4年間余り関東軍に所属し、満州(中国東北部)iいた。
「9月に復員、家業の農業を手伝っていましたが、ブラブラしていても仕方がない。同じ働くならきちんとしたところで・・・」---。
20年12月に警察官になった。依頼31年8ヶ月。地元警察官の最高ポスト、福岡・中央警察署長を最後に第二の人生のスタートを切る。(福岡市の専門委員として地下鉄開業、天神地下街の町づくりの仕事が待っている)。
「上司、同僚、部下、人に恵まれました。仕事は厳しい面もありましたが、努力が報われいい職場でした。」
浮羽郡浮羽町小塩出身 福岡市西区で妻はまよさん(53)と長男の3人暮らし。
-1977年8月22日(月)毎日新聞朝刊掲載 -
義父は物静かで実に優しい人でした。脚が軽くて、家にいる時は、炊事場にも立つし、家の掃除、風呂の掃除、庭の掃除・・・よくしていました。怒った顔を見た事がありません。七福神の育さんの二人の娘も、おじいちゃん、おばあちゃん子で、とても可愛がってもらいました。二人の娘はおじいちゃんおばあちゃんの姿をみて育ったようなものです。
「とにかく人は誠実でなくちゃいかん。人に裏切られることはあっても、人を裏切るような事だけはしてはいかん。」
「小さな失敗はなんぼしてもいい。それが成長につながる。しかし、取り返しのつかない大きい失敗だけは絶対にしちゃいかん。それは一生かかっても容易には取り返せない・・・。」
。義父の七福神の育さんへの教えでした。
関東軍での生死を彷徨う体験や31年の警察の事件畑での体験から行き着いた心底からの人生訓だったのでしょう。義父母にはいろいろと助けられました。ただただ感謝するばかりです。
今は仕事で無理ですが、七福神の育さんが70歳を過ぎて時間2余裕ができれば、義父母の歩いてきた足跡をたどって「本」を書いてみたいと思っています。

前篇はこちら⇒  http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-40.html 

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■比翼の鳥のように/義父母の生涯(前篇)


七福神の育さんは、これまで64年の人生の中で、「我が師」と敬えるたくさんの人びとに出会いました。
先に、このプログhttp://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-31.htmlでも紹介した川内南中学時代の恩師K先生、大学時代の居候先のT家の人びと、社会人になって最初に勤務した銀行支店の市川慶三取締役支店長(後の西日本銀行頭取)、銀行本店勤務時代の草野武二先輩(後の西日本銀行監査役)・・・。そして、先日他界した義父母も七福神の育さんの大きな心の支えでした。
これら「我が師」については、折を見て、このプログでも紹介していきますが、今回は、昭和の激動の時代を「至誠一貫」、「夫唱婦随」で生き抜いた義父母を偲んで語ってみたいと思います。(2011/8 執筆)

■最期まで用意周到・気配りの人生を貫く・・・
2011年4月4日、義父母は慌ただしく旅立って逝きました。それまで二人は、福岡の長年住み慣れた自宅で、お互いを労わり合いながら、つつましく元気に暮らしておりました。
ところが、4月1日(金)朝、「来週月曜日に入院したいので、今日一緒に付き合ってくれ」と七福神の育さんの妻に電話をしてきました。咳が止まず少し苦しそうでした。その日、妻はお父さんのお伴をして、天神のデパートや銀行を回って入院の準備を手伝ったそうです。それから義父は、自分が入院した後の義母の生活のことを心配して、自分が入院している間、義母もその病院のデイケアセンターを利用できるようにと、自宅近くの病院に入院することに決めたそうです。 義父はいつもそうでした。何事にも慎重で、常に用意周到、周囲への気配りを忘れませんでした。「事を進める時は、準備してもし過ぎることはない・・・。周りの人によく目配りすること」と。

■病院嫌いの頑健な義父が突然入院することに・・・
入院の準備とその後の手配を済ませて義父はしてホッとしたのでしょうか?、翌4月2日(土)朝、「月曜日まで体が持てそうもない・・・」と、予め決めていた自宅近くの病院に駆け込み、そのまま入院しました。
三歳の頃、高熱で一週間も瀕死の世界を彷徨い奇跡ともいわれる回復をとげた義父は、その後はたいした病気もせず、まして入院したこともありませんでした。義父は薬・病院嫌いで、その分だけ、健康には人一倍気をつける人で、食べ物にはうるさくて細心の注意を払っており、早寝早起きを心がけていました。
そんな頑丈な義父が病院に駆け込むのですからよっ程きつかったのだと思います。七福神の育さんの妻は実家に泊まって時々病院に様子を見に行き、義父とおしゃべりしていたそうです。3日(日)夜は親子三人(お母さん、兄さん)が枕を並べて、いつになく、夜遅くまで語り合ったそうです。

■比翼の鳥のように仲睦まじく天国に旅立った義父母
4日早朝、枕元の電話が鳴り、義父の容態が急変したとのこと。受話器をとった義兄の後ろで、飛び起きた義母がショックで倒れ込んでしまいました。妻からその知らせを受けた七福神の育さんは、長女を叩き起こし車を飛ばして病院に駆けつけましたが、時すでに遅く、午前5時、義父は急性肺炎から尿毒症を併発し急逝。
義母はしばらく自宅で安静にしていましたが、ほどなく救急車で義父の眠る病院に運ばれてきました。応急治療を受けてそのまま入院。一時、回復するかに見えましたが、同日正午27分心筋梗塞を併発し、夫の後を追うように安らかに息を引き取りました。 二人とも天命を全うしたような綺麗な死に顔でした。
義父・宮勇行 享年90
才、義母・宮ハマヨ 享年88歳。
余りにも急で信じられない最期でした。しかし、人もうらやむような、仲睦まじく天寿を全うした見事な最期でもありました。
中国唐代の詩人白居易(=白楽天、772-846年)の長編叙事詩「長恨歌」の中iに、【天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん】という詩の一節がありますが、生前、【連理の枝】のようにいつも仲睦まじく誰にも優しかった義父母は、【比翼の鳥】となって仲よく天国に旅立って行ったのでした。


■離れて遠き満州から、命からがらに帰国した義父母
先の世界第二次大戦で関東軍にいて、満州のシベリア国境最前線で戦っていた義父は、「このまま最前線にとどまっていてもロシアの大軍をとても防ぎきれない。ここは一端、撤退して体制を調えてから防御すべし」との師団長の機転(決断)で、終戦の一日前に北朝鮮国境近くまで退却していました。その翌日、ロシアの軍隊が攻め込んできて、最前線の兵隊さん50万人のほとんどがロシア軍の捕虜となりシベリアに抑留されたそうです。危機一髪、シベリア抑留の難を逃れた義父は、暑さと飢えに耐えながら生れ故郷を目指して歩き続け、海を渡り、終戦の年の秋のある朝、実家の庭先にようやくたどり着いきました。


の頃、義母もまた関東軍の憲兵さんに嫁いでいた実姉の出産のお手伝いで満州に渡っていて、満州で終戦を迎えました。身の危険を感じた義母は、実姉さんと一緒に、頭を坊主にして、顔には墨を塗り、ぼろぼろの着物を着て男装し、産まれたばかりの赤ちゃんを抱きながら満州の大地を逃げ惑い、命からがらやっとの思いで、三人とも無事に日本に帰ってこれたようです。それはまるでドラマの世界よりも過酷なのだったといいます。

■自分で運を切り開いた、気丈で意志の強い義父母
義父母は運の強い人でした。というより、自分で運を切り開いた意志の強い人でした。 あの柔和な優しい表情からは想像もつかないくらい、気丈で芯の強い人でした。
生前、義父母が満州にいた事は知っていましたが、この話は通夜と葬儀の時に本家筋の人からはじめて聞かされました。義父母は満州での若い頃の話はほとんど口にしませんでした。余っぽと苦労したのだと思います。思い出したくもないほど、語りたくもないほど過酷で悲惨な体験をしたんだと思います。
そんな義父母は、常々、「一生懸命やれば運はついてくる。一生懸命やれば誰かが助けてくれる。だから、人を裏切るような事をしたらいかん。努力すれば、必ず運は呼び寄せられる」と話していました。

■福岡県警で捜査一筋の人生を夫唱婦随で貫いた義父
福岡県浮羽郡の山村に生まれた同郷の二人は帰国後に知り合い結婚。
復員し手まもなく義父は福岡県警に就職。駐在所勤務をスタートに刑事畑を歩き、県警本部では捜査畑の中枢に長くいて汚職など多くの大事件を手がけ腕をふるい、博多警察署長を経て、地方警察官のトップである福岡中央警察署長を最後に勇退。
その後、福岡市の専門委員として福岡市地下鉄開業や福岡天神地下街の明るい町づくりに尽力した後、自動車学校の校長として70歳まで元気に働きました。勲章4等瑞宝章を受章。

■「至誠一貫」「正々堂々」「誠心誠意」が義父の信条
義父は、福岡県警在職中は、仕事にも自分にも厳しく、一方、部下や周囲の人にはどこまでも優しく、『仏の勇行(ゆうこう)さん』と呼ばれていたそうです。曲がったことが大嫌い。何事にも正々堂々と精神誠意で取り組む義父の姿勢に周囲の誰もが信頼を寄せ、大いに頼りにされていたようです。
事件があると、マスコミの記者の皆さんが、「夜討ち朝駆け」で自宅に押し掛けておられましたが、「せめて応対だけでも誠実に尽くさねば…」と義父母はいやな顔一つせず、にこにこしながらお茶や手料理を振舞っていました。
義父は、「自分が奉職を全うできたのも、気丈で、明るく、愛想のいい家内のお陰」だと話しておりました。
余談ですが、七福神の育さんは、仕事がら全国のテレビ局や新聞社の支社長さん達とよくお会いしますが、若い頃、福岡で報道記者をなさっていらっしゃった方も何人かおられて、義父のことを話すとびっくりされて、「あの勇行(ゆうこう)さんですか。いろいろとお世話になりましたよ。思いやりの深い人でした」と懐かしがってくださいました。人との出会いは不思議なもので何処でどうつながっているのかわからないものですね。


■柔和で優しい義父と明るく茶目っけのある義母
義父は、家庭内にあっても柔和で照れ屋のとてもおとなしい人でした。七福神の育さんはホントによく可愛がってもらいました。銀行の仕事はお金が絡んでいるだけに事件に巻き込まれがちですが、義父はいつもそのことを心配し、問題が起こらないように側面から色々とアドバイスし、支援をしていてくれていました。そのお陰で私が支店長をした支店では、地域やお客様との大きなトラブルは全く起こりませんでした。
ある時、義父は、「小さな失敗は何回やってもいいが、取り返しのつかないような大きな失敗だけは絶対にしたらいかん。大きな失敗をしない為には、物事を始める時にはよく考えて慎重に行動することが肝心。そのためには、日頃からよく本を読み、先輩の話に耳を傾け勉強をしておくこと」と教えてくれました。それ以来、七福神の育さんは事あるごとにその言葉を思いだし、たいした失敗もせずに今まで過ごすことができました。


義母はとにかく明るく愛きょうのいい人で、笑い声の絶えない家でした。いつ訪れても満身の笑みで出迎えてくれ、気分が沈んでいる時でもぱっと心が晴れて、いやな事もすぐに吹き飛んでしまいました。「いつも、にこにこしとかんといかんよ。ムツカシイ顔してたら、なんもかんも(運も)逃げて行くよ」
きゃぁきゃあと孫たちと戯れているあっけらかんの優しい義母でした。そんな義母ですから、二人の孫は大のおばあちゃん子で、親から見ても実に心の優しい女性に育ちました。


こうして、義父母の事を偲びながら綴っていると、義父母の存在がどんなに大きかったか思い知らされています。今はただ、感謝の気持ちでいっぱいで、ご冥福をお祈りするばかりです。
このプログの後編では、新聞で紹介された義父母の記事を掲載して、天国の義父母に捧げたいと思います。


後編へ続く⇒
    http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-43.html 
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■「人生100年時代を生きる道しるべ」発刊

  福岡可愛山同窓会創立50周年記念誌
「人生100年時代を生きる道しるべ」を発刊
50周年記念誌表紙     福岡可愛山同窓会は、「文武両道取り組み日本一」を目指し躍進している七神の育さんの創立122年の母校「鹿児島県立川内高等学校」の福岡に在住するOBの同窓会組織(会長は七福神の育さん)です。
福岡可愛山同窓会は、昭和44年、福岡市の博多築港の博多パラダイスでスタートしました。アメリカの宇宙船「アポロ11号」が人類初の月面着陸に成功し、アームストロング船長が、月面から「人間にとっては小さな第一歩だが、人類にとっては偉大な一歩だ」とメッセージを送ったのがこの年7月20日でした。
以来50年。福岡可愛山同窓会は、福岡にいる川内高校同窓生の「拠りどころ」として交流の輪を拡げ発展を遂げ、この7月1日(日)、福岡天神にある西日本新聞会館天神スカイホールで創立50周年記念式典と祝賀会を盛大に開催致しました。
その記念式典・祝賀会の模様や福岡可愛山同窓会の歴史とともに、全国で活躍する同窓生達が50年の来し方を振り返り、それぞれの経験や思いを語った50周年記念誌の制作が着々と進められ、12月末には発行予定です。

単なる記念誌ではなく、人生100年時代の参考書
50周年記念誌裏表紙    この50年、日本社会は拡大成長の昭和の時代からバブル崩壊・リーマンショックを克服し安定成長を遂げる平成の時代となり、今、「人生100年時代」を迎えています。
「歴史とは現在と過去との絶え間ない対話である」とE・H・カー(イギリスの歴史学者)は言っています。この記念誌は単なる同窓会の記念誌ではなく、この50年を強く逞しく懸命に生き抜いてこられた同窓生のナマの体験とそこから学ばれた豊富な知見が熱く語られています。
温故知新、これからの「人生100年時代を生きる道しるべ」として、同窓の枠を超えて、高校生・大学生・現役社会人の皆様、第二の人生に向かって前向いて堅実にスタートされた皆様の今後の生き方のヒントになるのでは・・・と思っています。どうぞご一読いただき、皆さまのご参考になれれば嬉しいです。(2018.12.30執筆)


A4サイズ/102ページ
   表紙と中面16ページは写真カラー                   
          
■発行日  平成301227日    
発行者  福岡可愛山同窓会
編集者  50周年記念誌編集委員  
印 刷  ㈱インテックス福岡
資料提供 薩摩川内市広報室、
可愛山同窓会、
            鹿児島県立川内高等学校
■制作協力 株式会社第一エージェンシー 
■企画協力 HOSJAS企画                             
 
     

■執筆者   主婦、管理者、教員、大学教授、弁護士、
           上場企業役員、全国紙元編集局長、経営者等

ご希望の方は、
Eメールでお申込み下さい。
■メールアドレス; mai196@jcom.home.ne.jp
         ※七福神の育さんのアドレスです。196は数字です 
■代金;    1冊1000円
       (記念誌郵送料、郵便振込手数料、消費税込み)
           ※2冊以上お申込の場合の1冊当り郵送料等は割安になります
■お支払い;  お申込み受付次第、郵便振込用紙をお送りします
■お届け;   入金確認次第、郵送でお届けします

ご参考までに; 50周年記念誌の主な目次
■創立50周年記念誌の発刊に寄せて          
50周年記念式辞 第一部  創立50周年記念行事
記念式典 式辞                               

50周年記念事業寄附金贈呈
寄稿文 

  横断幕と感謝状制作に挑戦 
  川内大綱引き綱練り取材に学ぶ
  大きく前進する川内高校


第二部 写真で見る式典・
       祝賀会&ふるさと川内

創立50周年記念行事式次第 
写真集
 記念式典/アトラクション/祝賀会(カラー)   
寄稿文 祝賀筑前琵琶演奏とサプライズ        

             紅白饅頭に故郷の味を込めて         

写真集  私たちを育んでくれたふるさと川内(カラー)     
第三部 福岡可愛山同窓会50年のあゆみ
歴代会長紹介                                                   

同窓会開催状況                            
寄稿文  井戸を掘った恩人 木元規矩男さんを偲ぶ
           福岡可愛山同窓会のことと昔話(遺稿) 
                同窓会50周年 その思い出           

               第三代会長宮脇均先生に寄せ             

                宮脇均先生の思い出               

              私と福岡可愛山同窓会               
               50回大会を欠席した私                
               おいと福岡可愛山同窓会楽しかったな  
第四部 人生100年時代の道しるべ
寄稿文 趣味とスポーツ、ボランティアを楽しむ~明るく元気に~

宝満山登山1036回達成         

   シフォンケーキと私           

マコが我が家に来て         

俳句とともに65年 趣味で元気を 

ボウリングに魅せられて       

喜寿の私の生きがい         

油絵に魅せられて           
寄稿文 仕事と勉強、部活で自分を磨く~道は自分で切り開く~
        福岡と私、そして出会い      
          そして今、弁護士として生きる    
              蜂楽万十とジゴ(尻)バット     
              人生の恩師の一言  
              
会社員生活50年 先人達の教え  
              故郷に教えられて育つ                
              九州陸上選手権出場、77才で剣道5段に昇段
       川内高校同窓会三題噺        
寄稿文 同窓の絆を深めよう ~来たれ 同窓の士よ 若人よ~

        ある日の全校朝礼           
              新しき歴史をつくる          

            伝統を受け継ぎ、歴史を紡ぐ      
紹介文 その道を切り開いた同窓の傑人達  
第五部 記念事業と福岡可愛山同窓会組織の紹介
■編集後記                                                               
 
桜島1544688881316 福田絵IMG_20180822_192404   
            桜島(写真提供:内田公子さん)                フラワーショップ(福田純子さん画)

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■「置かれた場所で咲きなさい」

昼休み福岡天神の本屋さんの前を通りかかったて見かけた本『置かれた場所で咲きなさい』幻冬舎。
教育者の家庭に生まれ、大学院卒業後、ノートルダム修道会に入りアメリカに派遣され、帰国後まもなく36歳の若さでノートルダム清心女子大学の学長に抜擢され、マザー・テレサ来日の折は、マザー・テレサの通訳・アシストとして終始付き添われたノートルダム清心学園理事長
【渡辺和子】さんの、いま最も読まれているベストセラー
(1000円)。本の薄さの割にはちょっと高いけど、内容は価格以上でお買い得。早速読んで共感した七福神の育さんは、会社の同僚、知人のYさん、友人のHちゃん、そして我が娘Mちゃんに紹介。「いい本ですね。ありがとう」のメッセージ。そこで、このプログで皆さんにもその一部を紹介することにしました。宗教に関係なく人の心を打ち、元気を与えてくれる一冊です。あなたも読んでみませんか。(2012/7/25 執筆)

置かれた場所でさきなさい ■置かれた場所で咲きなさい
人は境遇を選ぶことはできないが、生き方を選ぶことはできる。「現在」というかけがえのない時間を精一杯生きよう。どんなところに置かれても花を咲かせる心を持ち続けよう。人はどんな場所でも幸せを見つけることが出来るのです。
■人はどんな境遇でも輝ける
結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが次々にでてきます。
そんな状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない時、そんな時には無理して咲かなくてもいい。根を下へ下へと下ろして根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。つらい日
々も、笑える日に繋がるのですから。つらい夜でも朝は必ず来るのですから。
■あなたは大切だ。生きるだけの価値がある
人間の価値は、何ができるか、できないかだけにあるのではなく、一人のかけがえのない「存在」
として「大切」なのであり、「宝石」なのです。あなたが大切だと誰かに言ってもらえるだけで人は生きていける。人はみな愛情に飢えている。存在を認められるだけで人はもっと強くなれるんです。
■信頼は98%。あとの2%は許すための「ゆとり」
人間は不完全なものです。それだから100%信頼するから、許せなくなる。人間は決して完全にわかりあえない。だからどれほど相手を信頼していても、「100%信頼してはだめよ。98%にしなさい。後の2%は相手が間違った時の許しのためにとっておきなさい。」と私は言っています。「人間は神様じゃないんだから、間違ってもいいんですよ」とそういう2%のゆとりが大切だと思うのです。心に2%のゆとりがあれば、相手の間違いを許すことができるんです。

最後にもうひとつ、
■希望にはかなわないものもあるが、大切なのは希望を持ち続けること。迷うことができるのも、一つの恵み、一つの幸せ
■七福神の育さんの社会人生活を振り返って
七福神の育さんは、大学卒業後、銀行に入行。広島の初任支店で、「出納⇒預金⇒貸付」の窓口業務をマスター。9ヶ月後に、福岡の本店の電算センターに。そこでコンピューターと出合い、「データ入力・チェック)⇒コンピューターオペレータ⇒プログラマー⇒システム企画設計」と8年間でコンピュータ運営に関する全ての部署で銀行事務のコンピュータ処理化(オフライン処理からオンライン処理まで)に従事。
その後、推されて従業員3000人を束ねる職員組合に執行役員として専従。労務・人事問題の改善に労使協調の姿勢で携わり、全国の銀行の労働組合の皆さんとの交流も深めました。その間、経営不振に陥ったT相互銀行の吸収合併、業界初の普通銀行転換という銀行の歴史的事業にも遭遇し、職員組合の立場で協力支援。
5年間の職員組合役員生活を経て銀行現場に復帰。人事部より希望配属先を打診されすぐさま営業現場を希望。「それでよろしいんですか?本部でも支店でも今までの経験を生かせるポジションを用意しますが・・・?」 との人事部長のご配慮を断って「得意先次長」の肩書で営業店へ。夜遅くまでカブ号に乗って、若手行員と一緒にお客さまを訪問し「預金と融資」の提案営業に邁進。みんなの努力が実って2年間連続最優秀店舗となり38歳で福岡近郊の支店長に。
そこでは、地域の企業の社長さん達と【地域交流飛翔会】なる組織を作り【地域密着・地域活性化】に全力傾注し、その結果、役場や婦人会、小中学校のPTA役員の皆さんなど地域の信頼と期待と集める所となり、支店の業績もウナギ登りでこれまた2年連続優秀店舗表彰受賞。全国の銀行でも話題となり、東京にある銀行協会の研修所で何回か管理者や支店長向けに講義もする羽目になりました。 今でも【地域交流飛翔会】の当時のメンバーとの交流は続いています。
その後の大型店舗支店長時代はバブル崩壊で一転苦労の連続で、朝5時に起きて3社参りをして銀行に出勤する場面も3ヶ月ありました。それから後は営業本部に赴任。「営業推進⇒営業管理⇒営業企画」と全店の営業を統括する部署で営業推進し、再び、郊外のブロック長で営業第一線へ。
そしてまた営業本部を経て53歳の時、銀行とは畑違いの、お取引先で東証2部の食品メーカーに役員として出向。そこでは、営業管理担当の後、特務担当として海外事業、通販事業の新規事業に携わり、東アジア、アメリカに何回も足を運びました。60歳で役員定年。
運よく、敬愛する先輩の助力もあり、某ラジオ放送局の社長が声をかけて下さり、こだわりの焼酎造りの会社設立とラジオショッピング事業の手伝いをすることになりここでもまた未知の仕事に全力傾注。皆さんの協力があって1年半でほぼ初期の目的を達成したところで円満転職。
今は、地元の総合広告代理店で全国のテレビ局や新聞社を相手に素晴らしい若い仲間達と一緒に奮闘中。その合間に、鹿児島県や薩摩川内市の地域活性化のために、ボランティア活動二励みながら充実した日々を送っています。
いろいろと自分の過去を振り返ってきましたが、七福神の育さんは、これらの日々を、「ホントに充実していたな。我ながらよく努力したな」と誇りに思います。それも周囲の皆さんのお陰!! その原点は、私が23歳で本部に赴任した際の上司で今は亡き草野主任(後の銀行監査役)に、「あなたは、これからスペシャリストを目指しますか?ゼネラリストを目指しますか?」と問われた時、即座に、「勿論、ゼネラリストです」と答え、「それなら自分がその方針であなたを育てるからそれでついてくるか」と言われた事にありました。
それ以来、七福人の育さんは、その信念を貫き通してきました。職員組合役員を退任する時、人事部長に、「営業経験がないのにいきなり営業で大丈夫ですか?」と問われた時に、「大丈夫です」と即座に答えられたのも、「営業の相手は人。人との交わりはこれまで十分に学んできた。営業のノウハウは1ヶ月もあれば十分。自分には営業のスペシャリストが持っていない知識と技術と経験と人脈ががいっぱいある」と自信かがあったからです。何よりも、「環境適応力が強い}というのが七福神の育さんの長所でしたから。
そう、渡辺和子さんの言う、「置かれた場所で花を咲かせなさい」ということを実践していたんだと今確信しています。それは、小生が中学3年の時に他界した父の口癖、「少年老い易く学成り難し」「なんでもいいから勉強しとけ」という教えがあったからだと思います。 それが心の支えとなっているんだと思います。
この本に自分を重ねながら、七福神の育さんまだまだ元気。これからが青春の気概でこれからもがんばりますよ!!
■親友のHちゃんからススメられた【責めず、比べず、思い出さず】
 ~苦しまない生き方 禅と大脳生理学に学ぶ知恵~
この苦しみに満ちている世界、人生において、心が楽になり、生を充実させるための具体的な実践方法を示しています。不安、心配、意欲の減退、自責などの感情は薬では治せず、自分の心で治すしかないと説く。「心のもち方」「言葉」「呼吸」「坐禅」「写経、読経」の中から、どれか一つを実践すれば、晴ればれとした人生に!!。『置かれた場所で咲きなさい』と一緒に読めば、さらに人生が楽しくなる一冊です。Hちゃんありがとう。 
責めず比べず思い出さず       山口市の瑠璃光寺五重塔 
         高田明和 著           七福神の育さんの好きな山口瑠璃光寺の秋
(鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎)

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■その一言が人を育てる

その一言が人を育てる
七福神の育さんが、大学卒業後32年間勤めた銀行員時代は、まさに、「よき上司」に恵まれ、「その一言」で育てられた充実の日々でした。その我が師に感謝の意をこめて、32年間の体験談を振り返ってみました。
(2014/11/1掲載)


■市川頭取(当時広島支店長)との出会い
昭和44年4月1日、七福神の育さんは、当時の相互銀行業界トップ企業「西日本相互銀行」入社。3ヶ月間の社内研修を経て、7月1日に広島市にある横川支店に配属。
その時、七福神の育さんは、横川支店に赴任する前に、これまで育ててくれた母と兄に報告しようと、一端、福岡から列車に乗って郷里の鹿児島県の川内駅に着いたのですが、あいにく早朝からの豪雨で川内川が突然氾濫。川内駅の周辺は周りはみるみるうちに浸水し、交通機関は完全ストップ。結局、4キロ離れた実家に帰り着くことができずUターンする羽目に。
濁流渦巻く川内川に架かる鉄橋をおそるおそる歩いて渡り、それから腰まで泥水に浸かり国道3号線に出て、通りがかりの長距離トラックで八代駅へ。そこから列車を乗り継ぎ広島駅に着いたのは630日深夜。広島駅構内で仮眠し、朝7時に広島支店の通用口で待つ。
黒塗りの車が一番乗りで現れ支店長と思しき人が下りてくる。「どうしたんかね、その格好は。中に入りなさい」。これまでのいきさつをお話をすると、感動したように身を乗り出して握手を求められ、「おおそうか!頑張れよ」。それが市川頭取(当時広島支店長)との出会い。それから9ヶ月間、横川支店で預金、貸付係とし銀行業務の基本を学んだものの、こんなはずじゃなかった・・・と悪戦苦闘、意気消沈の毎日。
■「どうだ、私に任せてくれるかね!!」
        「常に、正々堂々、明るく颯爽と」
翌年3月のある朝、広島支店の市川支店長に呼び出され、「君は会社を辞めてアメリカに行くそうだが。本当はどうなんだ」と見透かしたように私の目を覗き込む。その凄い眼光にたじろぎ黙っていると、「横川支店のことは私も気になっていた。どうだ私に任せてくれるかね」。温かな眼差しに「お願いします」。
それから数日後
、「君の男気と情熱、責任感の強さに感心していた。君をしっかり育ててくれる所に預ける事になった」「嘘はいかんぞ。常に、正々堂々、明るく颯爽と!!」と市川支店長が諭す。意気に感じ、「この恩返し、いつかきっと…」と心に固く誓う。

■草野監査役(当時、電子計算センター主任)との出会い
入社1年後の昭和45年4月1日、福岡のJR博多駅前にそびえ立つ本店の電子計算センターに転勤し、コンピュータンピューターの世界に。当時、社会は高度成長の前段階にあり、時代の波に遅れまいと、各銀行は大衆化路線を進め、そこで発生する大量の事務作業をスピーディーに処理するために、大型コンピューターを導入し、事務処理システムの開発を競っていた。西日本相互銀行でも昭和44年に電子計算センターが発足、そこは、男女200名の若い精鋭たちが集められた、まさに最先端をいく花形部署。


■「君は、何を目指していくのかね?」
電子計算センターに転勤した七福神の育さんは、1年かけて、各支店から集まるデータの受付チェックの仕事などセンター各部署の事務処理を勉強した後、コンピューターの運用を担当するオペレーター部門に配属。その初日、部門長の草野主任(後の西日本銀行監査役)、「君はスペシャリストを目指すか?ゼネラリストをめざすか?」と問われ、即座に「ゼネラリスト」と返答。
■コンピューターの知識は最大の武器
それから2年間、2交代勤務(当時は、9時から24時までコ15時間コンピュータをフル稼働させ大量のデータをオフラインで処理していた)で、大型コンピューターを相手により効率の良いシステム運用に全力投球。27歳の時には、約40名からなるコンピュータ運用部門のトップを草野主任の後を継いで拝命(他の部署は銀行経験の豊富な課長や課長代理が部門のトップだったが、コンピュータ運用部門だけは、20代の若い人ばかりの集まりだったせいか主任職がトップ)。
その頃から銀行のコンピューター処理はオフラインシステムからオンラインシステムの時代にと・・・巡るましく進化。七福神の育さんは、
電子計算センターでの10年間で、オペレーション、プログラミング、システム企画とコンピューターの一通りを学び、ここで培った知識と体験がその後の仕事をしていく上で最大の強みになった。IT社会を生き抜く為には、コンピュータの知識は最大の武器。
■商いの原点は心。
     心さえあれば、どこでもやっていける
31歳になると、銀行の仕事の傍ら、職員組職員組合に5年間出向。オルグや役席協議で現場の実態を知り労務管理手法を体得、他銀行組合幹部との交流で人との交わりの大切さを知る。

職員組合退任時、迷わず営業店を希望。人事部長からは「支店経験がないのに大丈夫か?」と心配もされたが、「商いの原点は心。人との付合いは十分勉強したし仕事は3ヶ月もあれば覚えます」と八女支店へ。


■仕事には厳しく、認めたら全てを任せる
O支店長から伝票整理とスーパー・パチンコ店の集金を命じられ2ヶ月間、取引先の動きをウォッチ。10月から得意先係として営業実践。11月より得意先課長の仕事を任されたものの121日、「貴方には荷が重すぎた。今日からは若手得意先係2人だけを見なさい」と仕事を剥奪される始末。
何くそと
3人でボーナス線を戦い目標達成。14日支店長に、「今日から次長兼得意先課長として全て貴方に任せる。私が預金と融資が集まる仕掛けを作るから貴方は切込み隊長で思う存分やってくれ」。官公庁や地場企業の開拓もでき連続して最優秀店となり16ヶ月後39歳で志免支店長を拝命。

■心のふれあいで、地域と共に成長
志免支店では初代K支店長が個人基盤にがっちり浸透されていたので、法人取引基盤の拡大を主要方針に、工業団地進出企業と地場企業の共存共栄を図るべく「飛翔会」を18社で設立。毎月一回、公民館に集合、ランチしながら各社長が事業展開や悩み・助言等を語る会とした。
ゴルフは年
2回、忘年会は夫婦同伴、社員参加歓迎とし会社家族ぐるみの交流会に発展。この飛翔会で地域活性化の種々の企画が生まれ、ニッキンの「地域社会貢献賞」を受賞。「一味違った異業種交流会(会員企業の工場見学や社員勉強会、会員企業主催の町内ゲートボール大会等)を開催。店内にコミュニティ-文庫、雨傘ステーション、心の広場を設け、ふれあいの場を広げる。
毎月
1回の感謝デーは地元産の大根やトウモロコシなど季節野菜を提供」が受賞理由。
多彩な地域活動が開花し自然と預金も融資も倍増、連続優秀店となり、行員13名中4名が一度に昇格するなど他店から恨まれもした。表彰式での市川頭取の嬉しそうな眼差しが更なる意欲を掻き立てた。


■新藤頭取との出会い
    適応力があれば、どこでもやっていける

以来、営業現場で4年間、支店長、ブロック長として支店経営に邁進。営業本部では7年間、営業推進、営業企画を担当し銀行全体の営業方針・営業戦略策定とその推進に携わり、53歳の時に食品メーカー(東証上場)に出向。その時、「君には適応力がある。君ならできる」と全く未知の食品メーカーに送り出した新藤頭取の一言も今の私の支えになっている。
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■わが心の応援歌  「北辰斜めにさすところ」

 わが心の応援歌「北辰斜めにさすところ」

 『ほくしんななめにさすところ~♪』私が学んだ隈之城小学校・川内南中学校・川内高校の運動会でいつも歌っていた懐かしい思い出の応援歌。若き日の熱い思いをたぎらせ、夢を膨らませてくれたわが心の応援歌です。

この歌は、作詞・簗田勝三郎、作曲・須川政太郎による、旧制第七高等学校造士館(現・鹿児島大学) 第十四回記念祭歌で、遠く七高の時代からめんめんと歌い継がれ、神山征二郎 監督、三國連太郎、緒形直人、林隆三ほか出演の『北辰斜にさすところ』で映画化もされました。

私が山口大学の鳳陽寮にいた時、福岡県瀬高出身の田中憲二君がこのメロディーを口ずさんでいるのを偶然耳にし、その歌どこで覚えた?と尋ねると、母校(明善高校)の応援歌ですと答えたのにびっくり。最近わかったことですが、こののメロディーは、福岡県立筑紫丘高等学校や愛媛県立宇和島高等学校など全国各地の学校で採曲され、応援歌として幅広く愛され歌い継がれてきたようです。(田中君、今頃どうしているかな?)

人生を奮い立たせる気勢のいい男らしい歌ですが、スナックの片隅で焼酎のお湯割り飲みながらひとり静かに聞くメロディーは、しみじみと情緒があり、郷愁を誘います。
この歌の《巻頭言》に、『歌は悲しき時の母ともなり嬉しき時の友ともなれば』とありますが、まさに、『北辰斜めにさすところ』は、これまで、そしてこれからも、私を支え、老いてなお夢を与えてくれる心の応援歌です。

歌ってホントにいいですね。「いつも心に太陽を、唇に歌を持って」ですね。お互い、明るく颯爽と前向いて歩きましょう!!

【歌詞紹介】

『北辰斜めにさすところ』 

錦江湾・桜島を望む 一、北辰斜にさすところ                      

   大瀛(たいえい)の水 洋々乎

   春花かをる 神州の

   正気はこもる 白鶴城

   芳英(ほうえい)永久に 朽ちせねば

   歴史もふりぬ 四百年

 

二、紫さむる 黎明の                 三、悲歌に耳かす 人もなく

   静けき波に 星数え                  沈み濁れる 末の世の

   荒涼の気に 咽ぶとき                さんらんの夢 よそにして

   微吟消え行く 薩摩潟                疾風迅雨に 色さびし

   不屈の色も おごそかに              古城の風に うそぶける

   東火をはく 桜島                      健児七百 意気高し

     

四、南の翼 この郷に              五、ああ若き日の 光栄は

   三年とどまる 鵬(ほう)の影          今年十四の 記念祭

   行路は万里 雲湧きて                  祝うもうれし 向上の

   雄図もゆる 天つ日や                   旅の衣に ちりかかる

   かどでの昔 叫びにし                  樟の下露 清けらく

   理想の空に 長駆せん                  けふ南明の 秋にして

 

【解説】「北辰斜にさすところ」 とは、鹿児島が、北辰(北極星)を低く斜めに見る南の地であることの意味。1番で鹿児島の風土を詠い、2番で洋々とした静の錦江湾と熱き思いの動の桜島を讃え、3番~4番で理想への挑戦を鼓舞し、5番で14回記念祭を祝っています。 

(鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎)

 

 

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■文学に目覚めた「野菊の墓」前篇

野菊の墓の表紙 64年の人生を振り返ってみると、人生の岐路とも言えるような出会いが幾度かありました。一冊の本との出会い、いろいろな人との出会い、ショックな出来事…etc。その出会いによって、ものの考え方、人としての生き方を学び、進むべき道を見い出すことができたような気がします。
これまで、大過なく、身心ともに健康で、充実した日々を過ごし、今なお若い人達と一緒に、仕事やボランティア活動ができるのもそれらの出会いのお陰だといつも感謝しています。
このプログでも、折々に、七福神の育さんの忘れられない出会いのひとコマもお話ししていきたいと思います。
先ずは、好奇心旺盛な夢多き高校時代、文学というものに目覚めさせてくれた伊藤左千夫の小説【野菊の墓】との出会いから始めましょう。
(2012年3月 執筆)
■高校に入って、スランプに陥って…。
高校1年の初夏のこと。七福神の育さんは、その年の春、県立川内高校に合格したものの、入学後は、それまでの気合いがいっぺんに抜けて目標を失い思い悩む日々を過ごし、勉強も手に付かず試験の成績はどんどん落ち込んでいきました。その前の年の秋に父を亡くし、経済的にも精神的にも大きな支柱支えを失ったことで、不安と寂しさもあったのでしょう。 
父はその死ぬ時まで、川内南中学校と永利中学校が統合されて新しく誕生した川内南中学校の初代PTA会長でした。その前は旧・川内南中学校のPTA会長や永利中学校の校長を長くしていたこともあり、先生や父兄のよき理解者として誰からも一応の信頼を得ていたようです。
そんな訳で、七福神の育さんは小中学時代、「校長先生の息子さん」とちやほやされ、周りからも期待されて育ちました。七福神の育さんも"いい子"になろうと真面目に勉強もしましたし、先生方もよく目にかけて教えて下さいました。近所のO先生のお家に夜に押しかけて、遅くまで個人レッスンを受けたものです。そんな甲斐あって、中学時代はいつもトップクラスの成績で、同級生からも一目置かれ、三年の時には生徒会長にも選ばれもしました。
七福神の育さんは、高校では入学試験の成績で上位の生徒ばかりが集められた選抜教室に編入され、入学直後の五科目テスト(国語・数学・社会・理科・英語)では全校生約400名中3番の成績でした。しかし、そのクラスは互いにライバル心ばかりが旺盛で、気を許せる友も出来ず、先生方も特別に気にかけてくれる訳でもなし。それまでおらが大将で甘い環境に育てられてきた七福神の育さんはだんだんとスランプに陥っていきました。成績も急ダウンし、6月の中間テストでは、150番にまで落ちていました。
 
■その夏、 中学時代の恩師K先生に会いに…。
 「このままではいけない。どうすればいいんだろう…」との思いがそうさせたのでしょう。初夏のある日、七福神の育さんは、その年の春に転勤されていった中学時代のK先生に手紙を書きました。
K先生は国語の先生。七福神の育さんは授業で直接教わったわけでもなく、担任の先生でもなかったのですが、「いろいろと生徒の相談に乗ってくれる優しい先生」として人気のあるマドンナ先生でした。K先生からはすぐに、「夏休みに遊びにいらっしゃい」と嬉しい返事がきました。
夏休みに入ってすぐの日、JR鹿児島本線の隈之城駅から汽車に乗りました。当時は、黙々と黒い煙をはきながら石炭で力強く走る蒸気機関車。西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)からJR日豊本線に乗り換えて、錦江湾沿いに噴煙を上げる桜島の雄大な景色を眺めながらしばらく走ると、汽車は姶良郡の隼人駅に着きました。ホームには、日傘をさしたK 先生の懐かしい(半年ぶりでしたがホントに懐かしいと感じたのです)笑顔がありました。「いらっしゃい。よく来たね」。K先生の眼鏡の奥の優しい眼差しで迎えて下さいました。何かホッとした気分になったのを覚えています。

■鹿児島神宮で一緒に祈願してくれた恩師 …
霧島神宮境内 K先生のご自宅にはご両親と小学校の教師の妹さん、中学生の弟さんがいらっしゃって、一緒にごくありきたりのお話をしながら、お昼御飯をご馳走になりました。食事が終わると、K先生は妹さんと二人で近くの鹿児島神宮に案内してくださいました。「ここは神話にでてくる山幸彦ゆかりの神社で、神代の皇居跡もあるんですよ。薩摩隼人族の先祖は山幸彦の兄さんの海幸彦尊だから、ここの神社は薩摩隼人族の守り神なんです。神代の昔から崇められてきた由緒ある神社だから、ごりやくがいっぱいあるそうですよ。先生も一緒にお祈りしてあげるから…しっかりお願いをしたらいいよ・・・。」 と言って、一緒に並んで、鈴を鳴らしてお参りをして下さいました。嬉しかったですね。自分のためにお参りしてくださる先生がいて…。
手紙で悩みの一部を打ち明けていたのですが、K先生はその事には触れずに、お参りの後、「育郎君もいろいろとあろうけど、悩むってことはそれだけ成長してるってこと。誰しもそうやって大人になっていくんだから…。喜怒哀楽は人生にはつきもの。だから人生は面白いんよ。大いに悩み、苦しみ、考えることね。誰も助けてはくれないんだから。自分で考えて解決していくしかないのよ。頑張りなさい…!」と一言。K先生のその言葉に、「そうなんだ。ようし、頑張ろう…!」と道が開けたような気がして少し元気が湧いてきたのを覚えています。

霧島神宮初午祭 ■恩師からプレゼントされた一冊の本『野菊の墓』
鹿児島神宮の境内をしばらく散策していると、K先生は、「今、どんな本を読んでいるの」と突然尋ねられました。それまでこれといった小説など読んだこともなかった七福神の育さんが返事に困っていると、「そう、あまり読んでいないのね。だから育郎君は考え方がまだ子供っぽいところがあるんだ。これからはどんな本でもいいから本を読まなくちゃだめよ。」
「本を読めば、知識を得られるし、それまで知らなかった未知の世界を知り訪れることもできる。そこには新しい発見が必ずあるはずよ。」「小説を通していろんな体験ができ、随筆や哲学、専門書からはものの見方・考え方が学べるよ。だから本をたくさん読むことが大事。その為には、まず本を好きになることね。」 と諭して下さいました。
帰り際、K先生は「これを読みなさい」と一冊の単行本を差し出されました。それが伊藤左千夫の『野菊の墓』。帰りの汽車の中で、どんな本かとおもむろに本を開き読くと、『政夫と民子の幼い悲恋の物語』との文字が目に入り、なんだか面白そう。思春期の育さんは好奇心に駆られ読み始めました。読んでいくにつれ、先がどうなるのかとわくわくしてきて胸の鼓動が高まり、車窓の景色には目もくれずページをめくりました。汽車が隈之城駅に着くとそのまま家には帰らず駅のベンチに座って読み続けました。

■『野菊の墓』にとめどもなく流した涙 
多くの読者の共感と涙を誘った伊藤左千夫の主観的で感傷的な私小説【野菊の墓】。
あらすじは、『江戸川の矢切りの渡し付近の静かな田園を舞台に、十五の政夫と二つ年上の従姉民子との間に芽生えた幼い清純な恋が、世間体を気にする大人たちのために引き裂かれ、政夫は町の中学に行かされ、民子は心ならずも他に嫁がされてついには心労が重なり病死してしまう』というはかなくも悲しい恋の物語でした。あまりにも純真、可憐な恋物語に七福神の育さんはとめどもなく涙を流していました。生れてはじめての経験で、その夜はいつまでも興奮冷めやらず、寝床の中で繰り返し繰り返し読みながら涙の夜を明かしたのでした。
この物語は、木下恵介監督の「野菊の如き君なりき」で映画がされ、松田聖子さんや山口百恵さん主演のDVDでも人気の物語です。

後編へ続く http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-32.html


画像は、鹿児島霧島市のHPより掲載させていただきました。
 (鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎) 

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■文学に目覚めた「野菊の墓」後編

前篇より続く http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-31.html

■本が好きになって文学少年に…。
それからというもの、七福神の育さんは本のとりこになりました。最初は初恋、青春ものの手頃な中編小説からスタート。川端康成の【伊豆の踊子】【古都】、三島由紀夫の【潮騒】、石坂洋二郎の【青い山脈】【若い人】 、シェークスピアの【ロミオとジュリエット】、ゲーテの【若きウェルテルの悩み】、アンドレジッドの【狭き門】など純真、可憐な恋物語が七福神の育さんの好奇心をかき立て胸をときめかせてくれました。折しもその頃は、青春映画の全盛期で、アイドルスターの吉永小百合と浜田光男のコンビでこれらの青春小説がつぎつぎに映画化されており、封切の度に胸をわくわくさせながら映画館に足を運んだものです。
中でも、石原裕次郎と浅丘るり子、吉永小百合の豪華キャストで映画化された【若い人】のすかっとした面白さに魅入られて、石坂洋二郎の小説を次々に読みあさりました。その頃から、長編小説もあまり苦にならず、気長に読むこともできるようになり、本が好きになったような気がします。

 ■日本文学から世界文学へ、片っ端から読破…
読書の醍醐味を知った七福神の育さんは、初恋・青春小説に飽き足らず、次第に日本文学へと目を向けるようになりました。その頃の七福神の育さんの読書は作家毎に集中的に読破していく方法でした。石坂洋二郎を読破した後は、川端康成、三島由紀夫、武者小路実篤、谷崎潤一郎の現代文学を片っ端から読破し、次は島崎藤村、石川啄木、国木田独歩、中原中也、佐藤春雄などの詩歌の世界へ、そして、樋口一葉、夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、郷里川内の作家有島武郎の近代文学の世界にのめり込んでいきました。

■国語の成績がアップし、大学志望に変化が…
七福神の育さんは昔から数学が得意で国語は苦手でしたが、この頃になると、次第に国語の試験の成績が上がってきて、現代国語や古典、漢文の授業もだんだん待ち遠しくなってきていました。
そして、大学に行くなら理数系と思っていた七福神の育さんは、大学受験の頃になると理数系と文科系のどちらでもいいようになっていました。中間・期末考査(学科試験)の成績も入学した頃のレベルにアップし、苦手だった国語や歴史も好きになっていましたから…。
だから大学受験は、一期校は糸川教授のペンシルロケットに魅入られて九州大学の工学部電子工学科を受検し、一転、二期校は明治維新に感化されて【薩摩に生れ長州に学ぶ】を胸に山口大学の経済学部を受検したのでした。(当時は国立大学は2校しか受検できず、一期校と二期校に試験日が分れていました)
九州大学は肝心の「物理の」試験が全く解けずに見事に不合格となりましたが、山口大学は文科系の人が苦手な「数学」と「化学」の試験がほぼ完全に解けまぁ楽に合格。浪人を考える事もなく迷わず山口大学入学したのでした。
大学を卒業して銀行に入社した七福神の育さんは、コンピュータセンター、労働組合専従、営業店、本部(営業企画・営業推進)といろいろな部署を渡り歩き、銀行を定年退職した後は、食品メーカー、放送局、広告代理店と銀行の仕事とはあまり関係のない職につきましたが、どんな仕事・どんな環境でも苦にすることはありませんでした。『何処にいっても、人が相手で商売に変わりはなし。まァ何とかなるさ』の楽天的性格と『与えられた環境に順応できる』適応力(これは七福神の育さんの長所でもあるのですが)はこの頃から形成されたものだと思っています。

■世界文学からあらゆるジャンルの本に…
大学に入ってからは、当時学生に好まれて読んだ大江健三郎、阿部公房、小林多喜二、小林秀雄を少しかじりましたがちょっと難しくて、世界文学の方に惹かれていきました。ゲーテに始まり、ハイネ、シェークスピア、ドフトエフスキー、トルストイ、チェーホフ、ヘルマンヘッセを経て、ニーチェの哲学書、フロイトの精神分析論まで幅広いジャンルに手を伸ばし、文学史に出てくるような有名本は大学を卒業する頃には殆ど読んでしまいました。
社会人になってからは、吉川英治、司馬遼太郎、海音寺潮五郎等の歴史文学に親しむようになり、五木寛之、松本清張にはまりました。最近、『もしも高校野球の女子マネージャーだったら 』という本がベストセラーになっていてこのプログhttp://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-12.html
でも紹介しましたが、その本の原書【マネジメント】の作者ドラッカーの【断絶の時代】【経営の条件】など経済の専門書を読んだのもこのころです。
今一度読み直すと当時難しかった専門書も、30数年間の実体験を経た今ではすらすらと読めて理解できるようになりました。これからは、若い頃に読んだ本をまた読み直してみたいと思っています。


 
■九州財界のドン【瓦林潔 氏】の愛読書も【野菊の墓】
千葉県矢切の文学碑 西日本銀行に入社して二年目の夏、七福神の育さんは九州のトップ企業【九州電力】の社長で九州経済連合会の会長として九州財界に君臨していた瓦林潔氏の愛読書が【野菊の墓】であることを知りました。そんな偉い人と共鳴するものがあったと知って、「我が意を得たり」と高揚し、嬉しさがこみ上げてきたのを覚えています。 それは七福神の育さんの誇りとなり、大きな自信につながりました。
野菊の墓の舞台「矢切りの渡し」千葉県松戸市 「民子は余儀なく結婚をして遂にこの世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。民子は僕の写真と手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遥けく隔つとも、僕の心は一日も民子の上を去らぬ(明治39年1月)」(「野菊の墓」結びより転記)とのくだりを読み返すたびに幾度となく涙を流したものです。純真無垢で正義感に燃える育さんは、世間体を気にするあまりの大人のエゴ・大罪に怒りを爆発させるのでした。 その後、松戸市に住居を構えた長兄に会いに行く機会があり、そのついでに、【野菊の墓】の舞台となった矢切りの渡しに立ち寄り、政夫と民子の世界に想いを馳せながら、『どんな理由があっても、どんなことがあっても、人の気持ち、人格を踏みにじってはいけない。』と強く心に刻んだのでした。『人の気持ちを大切にし、その人の人格を尊重しなくてはいけない。人を思いやり、人を大切する心』を芽生えさせてくれた本でした。


■読書の大切さを教えて下さった恩師に感謝

野菊の墓の表紙 七福神の育さんに読書の楽しさ教えてくれたのは【野菊の墓】。その一冊の本を薦め、「人が生きていく上で読書することの大切さ」を教えてくださったのはK先生。
「読書は、あなたの知識欲や好奇心を刺激して、人生を楽しく、また、大きな失敗をしないように導いてくれるはずです。」「貴方が道に迷った時、くじけそうになった時、落ち込んだ時…それまで読んだ本の知識がきっと役に立つはずですよ」。

その教えがなければ、本を好きにもなれなかったでしょうし、本をたくさん読んでいなければ、『どんな環境下でも、前向きに考えて切り拓いていく対応力=適応力』は身につかなかったと思っています。『努力すれはなんでもできる。努力はいつかは実り、役に立ち、花開くもの』と七福神の育さんは、自分の体験からそう確信しています。
K先生とは大学時代にお会いしたのを最後にその後の消息はわかりません。その頃は、【野菊の墓】が自分の人生の大きな転機だったとはまだ思ってもいませんでしたから…。
いつかお会いしてお礼を申し上げたい…そう願っています。きっと喜んで下さると思います。K先生、それまで、どうか元気でいらしてください。
前篇は⇒ http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-31.html
画像は千葉県松戸市観光協会のHPより一部掲載しました。
(鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎) 

テーマ : なんとなく書きたいこと。。
ジャンル : 日記

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プロフィール

七福神の育さん

Author:七福神の育さん
■本名:新留 育郎
■薩摩川内市出身1946年生
■座右の銘
「敬天愛人」「士魂商才」 
■趣味とスポーツ
「柔道」「家庭菜園」
「絵画鑑賞と史跡散策」 
■愛読書
「野菊の墓」
「翔ぶが如く」
「金子みすず童謡詩集」
■愛唱歌
「北辰斜めにさすところ」
(旧制第七高等学校寮歌)
「吉田松陰」「薩摩の人」
「白い花の咲く頃」
「愛傷歌」「北の旅人」
■好きな俳優/アナウンサー
吉永小百合、有働由美子
小西真由美(川内出身)
■交流会/地域貢献活動
鹿児島県
 企業誘致サポーター
薩摩川内市 
 CSサポーター
新宮町男女共同参画
 審議会副会長
福岡さつま川内会副会長
福岡可愛山同窓会代表顧問
川内高校可愛山同窓会会員
川内高校ひっとぼ会世話人
川内南中学校同窓会会員
山口大学獅子の会世話人  
山口大学鳳陽会会員
山口大学柔道部OB会会員
西銀EDOS会会長
西銀志免会会長
西銀福間会会長
西銀会会員
福岡薩摩五代会会員
七福神+ONEの会世話人
■職歴
大手銀行支店長/本部部長
東証二部上場会社役員
地元放送局関連会社役員
総合広告代理店役員
■現職
HOSJAS企画(同)CEO
地場企業2社顧問
■資格認定
九州観光マスター1級
旅行業務取扱管理者
個人情報保護士
宅地建物取引主任者

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