■その一言が人を育てる
その一言が人を育てる
七福神の育さんが、大学卒業後32年間勤めた銀行員時代は、まさに、「よき上司」に恵まれ、「その一言」で育てられた充実の日々でした。その我が師に感謝の意をこめて、32年間の体験談を振り返ってみました。
(2014/11/1掲載)
■市川頭取(当時広島支店長)との出会い
昭和44年4月1日、七福神の育さんは、当時の相互銀行業界トップ企業「西日本相互銀行」入社。3ヶ月間の社内研修を経て、7月1日に広島市にある横川支店に配属。
その時、七福神の育さんは、横川支店に赴任する前に、これまで育ててくれた母と兄に報告しようと、一端、福岡から列車に乗って郷里の鹿児島県の川内駅に着いたのですが、あいにく早朝からの豪雨で川内川が突然氾濫。川内駅の周辺は周りはみるみるうちに浸水し、交通機関は完全ストップ。結局、4キロ離れた実家に帰り着くことができずUターンする羽目に。
濁流渦巻く川内川に架かる鉄橋をおそるおそる歩いて渡り、それから腰まで泥水に浸かり国道3号線に出て、通りがかりの長距離トラックで八代駅へ。そこから列車を乗り継ぎ広島駅に着いたのは6月30日深夜。広島駅構内で仮眠し、朝7時に広島支店の通用口で待つ。
黒塗りの車が一番乗りで現れ支店長と思しき人が下りてくる。「どうしたんかね、その格好は。中に入りなさい」。これまでのいきさつをお話をすると、感動したように身を乗り出して握手を求められ、「おおそうか!頑張れよ」。それが市川頭取(当時広島支店長)との出会い。それから9ヶ月間、横川支店で預金、貸付係とし銀行業務の基本を学んだものの、こんなはずじゃなかった・・・と悪戦苦闘、意気消沈の毎日。
■「どうだ、私に任せてくれるかね!!」
「常に、正々堂々、明るく颯爽と」
翌年3月のある朝、広島支店の市川支店長に呼び出され、「君は会社を辞めてアメリカに行くそうだが。本当はどうなんだ」と見透かしたように私の目を覗き込む。その凄い眼光にたじろぎ黙っていると、「横川支店のことは私も気になっていた。どうだ私に任せてくれるかね」。温かな眼差しに「お願いします」。
それから数日後、「君の男気と情熱、責任感の強さに感心していた。君をしっかり育ててくれる所に預ける事になった」「嘘はいかんぞ。常に、正々堂々、明るく颯爽と!!」と市川支店長が諭す。意気に感じ、「この恩返し、いつかきっと…」と心に固く誓う。
■草野監査役(当時、電子計算センター主任)との出会い
入社1年後の昭和45年4月1日、福岡のJR博多駅前にそびえ立つ本店の電子計算センターに転勤し、コンピュータンピューターの世界に。当時、社会は高度成長の前段階にあり、時代の波に遅れまいと、各銀行は大衆化路線を進め、そこで発生する大量の事務作業をスピーディーに処理するために、大型コンピューターを導入し、事務処理システムの開発を競っていた。西日本相互銀行でも昭和44年に電子計算センターが発足、そこは、男女200名の若い精鋭たちが集められた、まさに最先端をいく花形部署。
■「君は、何を目指していくのかね?」
電子計算センターに転勤した七福神の育さんは、1年かけて、各支店から集まるデータの受付チェックの仕事などセンター各部署の事務処理を勉強した後、コンピューターの運用を担当するオペレーター部門に配属。その初日、部門長の草野主任(後の西日本銀行監査役)に、「君はスペシャリストを目指すか?ゼネラリストをめざすか?」と問われ、即座に「ゼネラリスト」と返答。
■コンピューターの知識は最大の武器
それから2年間、2交代勤務(当時は、9時から24時までコ15時間コンピュータをフル稼働させ大量のデータをオフラインで処理していた)で、大型コンピューターを相手により効率の良いシステム運用に全力投球。27歳の時には、約40名からなるコンピュータ運用部門のトップを草野主任の後を継いで拝命(他の部署は銀行経験の豊富な課長や課長代理が部門のトップだったが、コンピュータ運用部門だけは、20代の若い人ばかりの集まりだったせいか主任職がトップ)。
その頃から銀行のコンピューター処理はオフラインシステムからオンラインシステムの時代にと・・・巡るましく進化。七福神の育さんは、電子計算センターでの10年間で、オペレーション、プログラミング、システム企画とコンピューターの一通りを学び、ここで培った知識と体験がその後の仕事をしていく上で最大の強みになった。IT社会を生き抜く為には、コンピュータの知識は最大の武器。
■商いの原点は心。
心さえあれば、どこでもやっていける
31歳になると、銀行の仕事の傍ら、職員組職員組合に5年間出向。オルグや役席協議で現場の実態を知り労務管理手法を体得、他銀行組合幹部との交流で人との交わりの大切さを知る。
職員組合退任時、迷わず営業店を希望。人事部長からは「支店経験がないのに大丈夫か?」と心配もされたが、「商いの原点は心。人との付合いは十分勉強したし仕事は3ヶ月もあれば覚えます」と八女支店へ。
■仕事には厳しく、認めたら全てを任せる
O支店長から伝票整理とスーパー・パチンコ店の集金を命じられ2ヶ月間、取引先の動きをウォッチ。10月から得意先係として営業実践。11月より得意先課長の仕事を任されたものの12月1日、「貴方には荷が重すぎた。今日からは若手得意先係2人だけを見なさい」と仕事を剥奪される始末。
何くそと3人でボーナス線を戦い目標達成。1月4日支店長に、「今日から次長兼得意先課長として全て貴方に任せる。私が預金と融資が集まる仕掛けを作るから貴方は切込み隊長で思う存分やってくれ」。官公庁や地場企業の開拓もでき連続して最優秀店となり1年6ヶ月後39歳で志免支店長を拝命。
■心のふれあいで、地域と共に成長
志免支店では初代K支店長が個人基盤にがっちり浸透されていたので、法人取引基盤の拡大を主要方針に、工業団地進出企業と地場企業の共存共栄を図るべく「飛翔会」を18社で設立。毎月一回、公民館に集合、ランチしながら各社長が事業展開や悩み・助言等を語る会とした。
ゴルフは年2回、忘年会は夫婦同伴、社員参加歓迎とし会社家族ぐるみの交流会に発展。この飛翔会で地域活性化の種々の企画が生まれ、ニッキンの「地域社会貢献賞」を受賞。「一味違った異業種交流会(会員企業の工場見学や社員勉強会、会員企業主催の町内ゲートボール大会等)を開催。店内にコミュニティ-文庫、雨傘ステーション、心の広場を設け、ふれあいの場を広げる。
毎月1回の感謝デーは地元産の大根やトウモロコシなど季節野菜を提供」が受賞理由。多彩な地域活動が開花し自然と預金も融資も倍増、連続優秀店となり、行員13名中4名が一度に昇格するなど他店から恨まれもした。表彰式での市川頭取の嬉しそうな眼差しが更なる意欲を掻き立てた。
■新藤頭取との出会い
適応力があれば、どこでもやっていける
以来、営業現場で4年間、支店長、ブロック長として支店経営に邁進。営業本部では7年間、営業推進、営業企画を担当し銀行全体の営業方針・営業戦略策定とその推進に携わり、53歳の時に食品メーカー(東証上場)に出向。その時、「君には適応力がある。君ならできる」と全く未知の食品メーカーに送り出した新藤頭取の一言も今の私の支えになっている。
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