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■曽木発電所遺構と上野喜左衛門/後編

前篇から続く⇒ http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-9.html
■曽木発電所建設に尽した川内の豪商・上野喜左衛門姿を現した曽木発電所遺構 

野口遵が建設した曽木発電所事業を物心両面で支援したのが、当時、川内川流域に広大な田畑・山林・水利 権を所有し、川内(現・薩摩川内市)で海運業や製糸工場などを興し、豪商としての地位を確立していた上野家の4代目・喜左衛門。

4代目喜左衛門は、野口遵に多額の出資を行い、曽木発電所の建設に奔走する。また、自らも、川内川流域に発電所を建設して日本窒素肥料㈱工場に電力を提供し、野口の事業を支えている。

5代目喜左衛門は、4代目が築いた野口遵との協力支援
関係をさらに発展させ、川内川流域を舞台にして日本の電力化学工業発展の一翼を担い、事業を多方面に拡大していく。
 


  ■江戸末期~昭和を駆け抜けた
    薩摩川内の豪商・上野喜左衛門の功績

近代電力化学工業を産んだ川内川上野家のルーツは、明治維新を成し遂げた西郷隆盛や吉田松陰や坂本龍馬が生まれた江戸時代の文化・文政・天保年間 (1804~1843年)にさかのぼります。上野家は、先代が死亡すれば直ちに【喜左衛門】を襲名する習わしがあり、初代(江戸/天保年間没)~5代目(1971年没)まで踏襲されている。以下、その功績を振り返ってみよう。


 ◆初代・2代目【上野喜左衛門】

江戸時代天保年間の頃から、川内地方(鹿児島県北部)で、焼酎・ろうそくを製造販売し財を築く


◆3代目【上野喜左衛門】

西南戦争直後に大きく財をなし、川内川(九州三大河川の一つ)流域の広大な田畑・山林を所有。奈良時代より水陸交通網の要をなしていた川内で、新しく海運業と製糸工場などを興し、豪商の地位を確立している。この頃、川内地方では、"七福神の育さん"の生れた隈之城一帯を中心に、養蚕(かいこ)・製糸業が栄ている。 


 ◆4代目【上野喜左衛門】

曽木発電所の建設に当たり、野口遵が頼りにしたのが4代目・上野喜左衛門。4代目喜左衛門は、曽木発電所事業に多額の出資を行い、野口遵を物心両面から支援し、発電所建設に尽力する。

自らも電力化学事業にも乗り出し、「川内製油」「川内川電気㈱」を設立。川内川発電所を建設し、野口遵の経営する日本窒素肥料㈱に送電を開始している。「川内川電気㈱」は、後に「日本水電㈱」と対等合併するが、これが九州のトップ企業「九州電力」の前身である。

九州電力は、1974年に川内火力発電所を、1985年には川内原子力発電所を操業開始するが、その縁は、4代目喜左衛門にさかのぼることを知り、4代目喜左衛門の洞察力と偉大さにただ感服するばかり!!


◆5代目【上野喜左衛門】1901年~1971年 オリジナル焼酎喜左衛門

4代目喜左衛門が築いた野口遵との協力関係をさらに深めて支援を強化し、川内川流域を舞台にして、幅広く事業を拡大し、日本の電力化学工業発展の一翼を担って尽力した

幼名は次郎七。日本水電に入社し、一年後、取締役総支配人として活躍。

「川内製油」を発展させて「上野商事 ㈱」を設立また、1945年3月、川内市に「南国兵器㈱」を設立し、終戦直後の同年10月には「南国殖産㈱」に社名変更。南九州を主基盤にして多方面で事業展開している南国殖産グループの基盤を確立した。
32歳で貴族院議員に当選。鹿児島商工会議所会頭を14年間務め、政財界を問わずあらゆる場面で活躍し、地元川内・鹿児島・南九州の発展にのみならず、日本の電気化学工業の発展に多大な功績を残している。

余談ながら、JR鹿児島中央駅アミュプラザ地下1階の「焼酎維新館」喜左衛門の功績を讃えたオリジナル焼酎【喜左衛門】(白金酒造)を販売している。"コイが、カゴンマン、ホンモンのソチュ ゴワンド。ノンで ミヤンセ!! ガッツイ ウンマカド"(これが、鹿児島の、本物の焼酎です。飲んでみてください。とてもおいしいですよ)


◆「中外製薬」「積水化学工業」を興した

                十蔵と次郎男
グロンサンで有名な「中外製薬」の創業者【上野十蔵】は5代目喜左衛門の叔父で、七福神の育さんの生れた町隈之城の出身。関東大震災の惨状を目の当たりにし、製薬業を起こす決意をする。ドイツ製の薬を売り歩き、1943年中外製薬を設立、"大衆肝臓薬時代"を築いている

5代目喜左衛門の次弟の【上野次郎男】は、「日本窒素肥料」の常務取締役を経て、1951年「積水化学工業」社長となり、プラスティック加工の分野で最大手メーカーに発展させ、積水化学の中興の祖と言われている。 


■今も、脈々と流れる喜左衛門の商いの心 
 

歴史を語る川内川代目喜左衛門は、終戦後の財閥解体、農地改革によって広大な土地と事業資産を失うことになるが、せんでガラッパ(義理人情に厚い気骨あふれる川内人をさす。ガラッパは河童のこと)の不屈の精神で、逆境をチャンスと捉え、時代の変化に敏感に対応し、新たな事業に挑戦し、飛躍発展を遂げている。喜左衛門のすごさをここに垣間見ることができる。

喜左衛門の「商いの心(起業精神と企業魂)」は、代々引き継がれ今も脈々と流れている。
戦後の財閥解体、1970年代前後のオイルショック、1990年代のバブル崩壊で、それまで勢力を誇っていた有力企業グループが破たん・衰退・低迷していく中で、南国殖産グループ(上野グループ)はその困難を跳ね返し、ばねにして逞しく成長してきている。今また、リーマンショックの不景気の中にあっても、「元気企業」といわれるその活力の源は、この「喜左衛門の商いの心」にあるのかも知れない。
 


■「人こそ財産」をモットーに

       さらに発展する南国殖産グループ 

南国殖産本社上野喜一郎は、5代目喜左衛門の後を引き継ぎ、1971年から社長・会長となり南国殖産グループのリーダーとして、九州・鹿児島を拠点に、エネルギー、情報通信、建設資材、機械設備、都市開発、農業、介護医療等なあらゆる産業分野で幅広く事業を拡大。では、総合商社の南国殖産㈱を核にして、会社・関係会社合わせて30数社を擁する九州でも屈指の企業グループに成長させ、地域経済の牽引車となって地域発展に大きく貢献している。

また、2008年亡くなるまでの10数年の長きにわたり、県経営者協会会長、鹿児島商工会議所副会長を務め、鹿児島の経済界の発展に尽力、2002年には旭日小綬章を受章
現在、南国殖産グループは、「人こそ財産をモットーに、時代の変化に敏感に対応しながら、新しいビジネス拠点・新しい街づくりに挑戦している。 
 


歴史をひも解くと、その時代に生きた先人たちの意外なストーリーが垣間見えてきて面白いですね。 わが故郷・川内の先人たちの偉業を誇りに思う"七"福神の育さん"でした。作家の有島武郎・里見、画家の有島生馬の三兄弟も川内の出身なのです。川内ってすごいでしょう!!


 【参考文献】川内市発行の「川内市史」「わがまち川内」及び関係各社のホームページ、南日本新聞の記事、鹿児島県発行の情報誌、地元伝聞情報を参考にまとめてみました。文中の写真は、薩摩川内市及び伊佐市及び南国殖産のHPからコピーさせていただきました。
(2012/5/25HP掲載)
(鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎) 


 

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■曽木発電所遺構と上野喜左衛門翁/前篇

ひっとぼ会のJさんから、「私の祖父が関係した明治の発電所の遺構が曾木の滝(現・伊佐市)の近くにあるそうよ」と聞かされ、車で川内に帰省の折、立ち寄ったのが曽木発電所遺構。湖底に浮かび上がった廃墟の壁をじっと眺めながら往時の姿に想いを馳せていると、明治から昭和にかけて、日本の電気化学工業の近代化に尽力し、そのめざましい発展を支えてきたわが郷土の先人たちの足音が聞こえてくるようで感動的でした。

現在があるのは全て"先人たち"が存在したお陰。この遺構に隠されている先人たちの足跡を知りたくなって、川内歴史資料館に足を運び、ちょっとばかり勉強してみました。 (2012/5/24掲載)


■中世ヨーロッパのお城を思わせる曽木発電所遺構 
曽木の滝北薩摩を東西に流れる川内川の上流にある鶴田ダムのさらに上流に、「東洋のナイヤガラ」とも呼ばれる曽木の滝(鹿児島県伊佐市大口宮入)がある。滝の周辺は公園になっていて、桜、新緑、紅葉と四季折々訪れる人を楽しませてくれる。その滝を1.5Km下った場所に、ダムの水位の下がる5月初め頃から、中世ヨーロッパのお城を思わせるようなレンガ造りの建物が徐々に姿を現す。建物は煉瓦の壁だけが残っているが、元々は3階建 曽木の滝公園 ての建物だけあって威風堂々としていた様子がうかがえる。ちなみに、建物のレンガや機械設備まで全てドイツから輸入したものだとか。

1909年(明治42年9月)に完成した曽木第2発電所の遺構だ。曽木発電所遺構は、近代産業遺産として、平成17年11月に国の登録有形文化財に登録され、鹿児島市内の磯御殿・尚古集成館とともに鹿児島歴史探訪の観光スポットになっている。

 


 

  ■神秘的な対岸からの眺め

曽木発電所遺構の全体が見渡せることができる対岸の高台には展望台が設けられ、川面に映える遺構をゆっくり眺め曽木発電所遺構 ることができる。展望台の周りは、樹木の茂るちょっとした公園となってきれいに整備されている。静寂な公園の木漏れ日の小道を散策すると、何かオーラが感じられゾクッと身震いがする。日本の電気化学工業の近代化に偉大な功績を残した先人達の魂が宿っているのだろうか・・・神々しくもある。  

実は、最初の発電所(曽木第1発電所)はここから少し上流の曽木の滝の近くに造られていて、現在見ることのできるこの遺構はその2年後に完成した曽木第2発電所。曽木の滝公園内の奥には、第1発電所の導水路跡や洞窟など  が至る所に残っており、散策路として整備され、洞窟では霊芝なども栽培されている。 


■ライトアップで暗闇のダム湖に浮かび上がる
                 ロマンテックなシルエット

伊佐市では建設100周年記念イベントの一環で、昨年11月にライトアップ。それが好評だったため、この年末年始は、姿を現した曽木発電所遺構 12月11日より本年1月11日まで、ライトアップいう粋なサービスで帰省客を楽しませている。

遺構から約30メートルの高さにあるサーチライトから白い光が伸び、暗闇のダム湖にレンガ造りの建物が浮かび上がる様はまさにロマンティク近代日本の電気化学工業を切り開いた先人たちの夢とロマンが今にも伝わってくるようだ。

渇水が長引いたこの年末年始は曽木発電所遺構の姿を見ることができたが、例年の冬場は鶴田ダム湖に沈んでしまって残念ながら見られない。ダムの水位の低下する5月頃から徐々に姿を現し、7月頃が一番くっきりと姿が浮び、9月頃までは全容を見ることができる。 


■曽木発電所は電気化学工業発祥の地

曽木発電所は、1908年日本窒素肥料(現チッソ)を設立し、ここを土台に、第二次世界大戦まで日本・東アジアの電気化学工業界に君臨した日窒コンツェルン(野口財閥)のドン野口遵(のぐちしたがう・1873~1944年)が1909年(明治44年)に建設した水力発電所。建物は高さ19メートル、幅43メートル、奥行き20メートル。発電量は6700Kw(1590kw×4基)で、当時は国内最大級の発電量を誇っていた。

この電力は、伊佐市にある日本最大の金山(菱刈金山)や牛尾鉱山、そして水俣の日本窒素肥料(現・チッソ株式会社の前身)に大量に供給され、近代日本の電気化学工業の発展を支えていく

電気化学工業では、ダム建設による水力発電により電力を確保し、大量に供給される電力を利用して電気化学工場で肥料や火薬を製造する。電力が安いほど競争力が得られることから水力発電と化学工業は相互依存の関係にあり、この曽木発電所が近代電力化学工業の発祥の地と言われる理由はここにある。


■曽木発電所からアジアに広がる電気化学工業

世界第一次大戦の勃発によりイギリスからの硫安の輸入が途絶えたのを契機に、野口遵の率いる日本窒素肥料は、国内原料と曽木発電所・川内発電所の自家発電を利用していたため生産費の上昇がなく大戦中に莫大な利益を上げ急成長する。野口遵は、ここで得た巨額の富とドイツ式先端技術をバックに、延岡⇒朝鮮半島⇒中国(満州国)⇒マレー半島へと事業を拡大し、世界第3位の電気化学メーカーに発展させていく。後に、野口遵は「近代電力化学工業の父」との言われるようになる。

第二次世界大戦の敗北による財閥解体で日窒コンツェルンは終焉をむかえるが、現在の日本の化学工業の先端を走る「積水化学」や「旭化成」のルーツは日本窒素肥料㈱であり、曽木発電所はその原点なのだ。

曽木発電所は1961年まで操業。鶴田ダムの完成によりその役目を終え、1965年に水没し幻の発電所となった。

実は、野口遵をバックアップし、曽木発電所の建設に大きく尽力したのが、わが故郷・川内の豪商【上野喜左衛門翁】でした。後編では、その上野喜左衛門翁についてお話します。

 後編に続く⇒ http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-10.html

 


 

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■「味・塩こしょう」おいしさの秘密

ロングヒット商品【ダイショーの味・塩こしょう

■愛されて42年。今や食卓の定番

日本の伝統的な調味料と言えば醤油・味噌。それに匹敵する調合調味料が1968年に福岡の地で誕生している。

「ひと振り3役」でおなじみの、今や食卓の定番、ダイショーの「味・塩こしょう」

塩とこしょうと調味料を独自の製法でバランスよくブレンドして、最後のひと振りまで均一なおいしさを保ち焼き肉、焼き鳥、バーベキュー、野菜炒め、チャーハン、ハンバーグ等々…いろいろな料理の下味付け、仕上げに重宝がられている万能調味料

SB食品やハウス食品を含め大小の食品メーカーが類似商品を発売しているが、こちらは「味付塩こしょう」。「味・塩こしょう」はダイショーの商標登録商品なのだ。(1993年商標登録)


■金澤俊輔氏と「味・塩こしょう」の出会い

◆味・塩こしょうの誕生秘話

金澤俊輔氏は「ダイショー」の創業者。当初、九州大学のキャンパスのある箱崎(福岡市)で奥様と小さな焼き肉店を営んでいた俊輔氏。お店は奥様に任せ、自分でブレンドした自慢の秘伝のたれを瓶詰めし、リアカーに積んで、お肉屋さんや焼き肉屋さんに売り歩いていました。(現在も販売しているダイショー焼き肉のたれ【焼き肉一番】のルーツここにありました)

当時、お肉屋さんは対面販売が一般的であり、その際とんかつ肉を売る場合、お客さんから注文を受けその商品をお渡しする前に、とんかつ用豚肉に塩とこしょう振りかけていました。ある日のこと、金澤氏は、
「面倒くさいことをしてやってるなぁ。塩とこしょうを一緒に混ぜた調味料があれば便利なのに・・・」とピーンとひらめき、「よう~し、俺が作ってやろう」と思い立ったのが“味・塩こしょう”の始まり。
塩、こしょうを厳選し、それとまんべんなく混ざり合い味を調えるてくれる原料を探し出し、これら全ての原料を「均一の微粒子にすりつぶす技術の開発」や「食材の味を引き立たせるバランスのとれた配合」を追求し、あれやこれやと試行錯誤の連続で、やっと商品化に漕ぎ着けたのが今から42年前のこと。
以来、ダイショーの味・塩こしょうは、「安心・安全」「おいしさ」「便利さ」を求めて進化をつづけ、「荒挽き黒こしょう粒ガーリック入り」「化学調味料不使用の味・塩こしょう」をアイテムに加えて、今なお、押しも押されぬロングヒット商品として、さまざまな料理の場面で愛されています。

◆金沢俊輔氏の先見性と鋭い商売感覚
「商品開発者は、開発するのは得意だが、売るのは苦手」とよく言われているが、金澤氏のすごさは、セールスプロモーションでもいかんなく発揮されている。
味・塩こしょうの販売開始と同時に、金澤氏は番頭格の中嶋良二氏(現・専務取締役)を切り込み隊長に、威勢のいい社員を選りすぐりキャラバン隊を結成、スーパーのお肉コーナーで試食販売を展開。鶏(ブロイラー)と宮崎牛のメッカ・宮崎市をかわきりに北へ北へと攻め上り、あっという間に沖縄から北海道まで量販店のお肉売場に味・塩こしょうを並べてしまう。
一方、天才的なまでのカンピュータを働かせた戦略的な新聞広告・チラシ折込・テレビCM展開で、消費者の認知度アップを図り、瞬く間に、食卓の定番商品に仕上げてしまう。金澤氏は、まさに、商品開発能力のみならず先見性と商売感覚に卓越したカリスマ経営者でした。

◆味塩こしょうを海外にも広めたい…が夢  

ある日、金澤氏に、「俺が作った味・塩こしょうを海外にも広げたいんだが・・・」と持ちかけられた七福神の育さんは、「海外に輸出するとなると、すぐにコピー商品が出回りますよ」と答える。

「俺もそう思って今まで輸出には慎重だった。しかし、よく考えてみると、32年たった今でも、俺の味・塩こしょうを超えるものは出てこなかった。いろんなメーカーが俺のまねをしてきたが、国内の大手メーカーでも俺の味・塩こしょうには勝てなかった。まして、海外の業者が俺より上等の商品を作れるはずがない。今こそ、長年の夢を実現する時だ!!」と言って、海外事業(輸出)展開を決断されたのを思い出します。

以後、金澤氏の作った味・塩こしょうは、ソウル、上海、香港、ロスアンゼルスから、アジア、北米、欧州・・・と広まって、世界の人々にも愛されはじめています。

金澤氏の眠る福岡郊外にあるお墓を訪れると、「世界にもっと広がれ~、もっと広がれ~」と、ニコッと笑みを浮かべながら、今でも夢を追いかけられている金澤氏の顔が浮かんできます。


◆社会貢献活動にも熱心 ~奨学金で学生を支援~

箱崎宮に咲く牡丹 金澤氏は、「自分の今があるのは、みんなのお陰、社会のお陰」だと、生前、財団法人「金澤記念育英財団」を設立し、多額の自己保有株を寄贈されています。

その配当金で、日本の大学で学んでいる多くの日本人と外国人留学生に奨学金を提供するなど社会貢献活動にも熱心で、その意志は松本洋助社長に引き継がれています。

 


 

おいしさで・しあわせをつくる ダイショー

◆会社名: 株式会社ダイショー ダイショー東京本社

◆設立: 昭和4112

◆代表取締役社長 松本洋助

◆東証二部上場

本社:  福岡・東京

◆工場: 福岡第一・第二・茨城

◆味・塩こしょう、鍋スープなど

        調合調味料のトップメーカー

◆業績: 

(213月期) 単独        売上高  約148億 経常利益 約 7.0億

(22年3月期) 連結(予想)売上高 約160億 経常利益 約11.6憶

HPはこちら      http://www.daisho.co.jp/ 

創業以来42年間、一度も赤字を出した事がなく、不況下の平成22年3月期決算も増収増益見通し発表されるなど、堅実経営で安定成長を持続しています。味・塩こしょう、もつ鍋・キムチ鍋スープに見られるように、常に他社に先駆けた商品開発で新しい食の市場を創造し、着実に発展している福岡で生れた優良上場企業です。


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■鹿児島と山形の交流、いま再び(前篇)

山形テレビ大阪支社の三浦支社長が青木課長と一緒にご挨拶にお見えになった時のこと。私がボランティアで、鹿児島県企業誘致サポーターの仕事もしていることをお話しすると、「実は、山形県と鹿児島県は古くから深いつながりがあるんですよ。戊辰戦争で官軍と対決、降伏した庄内藩に寛大な措置をとってくれた明治維新の英雄【西郷隆盛】を祀った南州神社があるくらいですから…」と三浦支社長。
それから二日後、なんと、その話がそっくりそのまま、西日本新聞の朝刊一面下段の【春秋】に掲載されたんです。あまりのタイミングの良さに、「西日本新聞にあのことお話しされましたか?」と三浦支社長にお尋ねすると、全くしていないとのこと。七福神の育さんもリリースしてないし…。こんな偶然ってあるもんなんですね。
そしてまたまた びっくり!! 12月7日三浦支社長から1枚のファックス。【西郷さんの縁 山形、鹿児島両県議会交流】の大見出しの山形新聞(12月6日)二面記事。両県の交流がいま再び始まったことを報じていました。 (2010/12/19執筆)
■西郷隆盛と鹿児島県&山形県「徳の交わり」
鳥羽・伏見の戦いの契機となった江戸薩摩藩邸焼き討ちを実行した庄内藩(山形県鶴岡市・酒田市)は、戊辰戦争でも薩長の新政府軍に果敢に抵抗しています。だから、新政府軍に降伏した時、庄内藩は厳重な処罰が下ることを覚悟していました。しかし、新政府軍参謀の薩摩藩士・黒田清隆は、庄内藩に対し極めて寛大な処置を取のました。この温情ある薩摩人の処置に対し、旧庄内藩の人々は痛く感激し、薩摩人に敬愛の念を抱くようになりました。
西郷隆盛 実はこれらの処置は、西郷隆盛が陰で黒田に指示して行わせていたのですが、そのことを後日知った旧庄内藩の人々は、
西郷隆盛に感銘し大いに慕うようになり、明治になると、西郷隆盛を東京や鹿児島に訪ね、教えを仰ぐようになりました。
明治3年には、旧庄内藩主・酒井忠篤(さかいただずみ)が旧藩士七十六人を引き連れ、鹿児島の西郷隆盛を訪ね薩摩の軍事教育を学んでいます。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困る者なり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。然れどもかくの如き人は、凡俗の眼には見るべからず」。七福神の育さんの座右の銘でもある「敬天愛人」など西郷隆盛の教えをまとめた【南州翁遺訓(なんしゅうおういくん)30ヶ条】は、実は、西郷隆盛(南州翁)に心服していた旧庄内藩士達が、西郷隆盛から直接聞いた教訓等を一冊の本にしてまとめ刊行したものです。

南州翁の教え石碑(鶴岡市) さらに、山形県酒田市の人々は、昭和51年に西郷南洲翁(西郷隆盛)を祀った南洲神社を創建し、西郷隆盛の遺徳を讃えて信心しています。南州神社の本社は鹿児島市にあり、分社は酒田市のほかに、鹿児島県沖永良部の和泊町と宮崎県都城市にあります。
また、鶴丸城二の丸跡地(鹿児島市立美術館脇)i建つ軍服姿の西郷隆盛像は、元山形県議の石沢宏太郎(山形県東山村郡区)がモデルを務めており、両県議会の再交流の橋渡しにもなったようです。


■三島通庸(初代山形県令)と山形の石橋
綱取橋(山形県の石橋) 山形県内の石橋は、薩摩(鹿児島)と無縁ではありません。山形の石橋を発案したのは、薩摩出身で初代山形県令「三島通庸(みちつね)」です。
薩摩の島津藩では、肥後の石工に石橋架橋の技術を学んで多くの石橋を作っていました。三島通庸は技術を持たない山形に故郷薩摩より奥野忠蔵等多くの石工を呼び寄せ、石橋架橋にあたらせたのです。
後に山形県土木技官となった奥野忠蔵が設計した現存する石橋で記録に残っているのは瀧ノ岩、瀧ノ小、吉田、綱取、常磐の5橋だそうですが、山形県内に残る他の8つの石橋も何らかの形で奥野忠蔵が関与していたようです。
西田橋(鹿児島県の石橋) 肥後(熊本)で生れた石橋架橋の技術は、島津藩の手で薩摩(鹿児島県)で開花し、三島通庸により「薩摩から山形へ」、さらに三島通庸が山形県令の後、福島、栃木の県令となって「福島・栃木へ」とつながっていきます。そして、東北の地に一世紀以上経た現在でも、その石橋は地域の人々に愛され、利用されているのです。


■鹿児島の「ちまき」と山形/鶴岡の「笹まき」

鹿児島のちまき1 鹿児島県内の家庭では、端午の節句に、【ちまき】と呼ばれる「あくまき」をつくって祝います。
七福神の育さん実家では今も、端午の節句(子供の日)の頃になると、木や竹を燃やした灰から取った灰汁(あく)に浸したもち米を孟宗竹の皮で包んで大きな釜に入れ、灰汁水で数時間煮込んで作っていました。ぐつぐつぐつぐつ長時間煮込むと米粒が溶けて餅状になり、表面は飴いろのぷるるんとした「あくまき」が出来上がります。これが【ちまき】です。
鹿児島のちまき2 竹皮をむいて左手にちまきを持って、細い糸の片方を口にくわえ、右手に糸の端を持って、糸でぐるりと円を描くようにして【ちまき】を適当な大きさに皿に切り落とし、砂糖と少々の塩を混ぜたきな粉をまぶしていただきます。黒糖の粉やはちみつ、醤油をつけてもおいしいです。かすかな苦みが素朴な手作りの味を引き立たせます。 
 

山形の笹まき 鹿児島の【ちまき】に似た食べものに山形の旧酒田藩/鶴岡地方にだけ伝わる【笹まき】があります。
ちまき】同様に灰汁で煮込ンで作りますが、こちらは笹で包み,笹を丸のままのタケノコそっくりに編んだり、穂先のような形に巻いています。作り方も、灰汁にナラや柿の木の灰を使う以外は
鹿児島の「ちまき」によく似ています。
山形テレビの三浦支社長によると、山形県内の鶴岡以外の地方でも【竹の子まき】と呼ばれる【笹まき】があるそうですが、あの透き通ったようなゼリー状(?)、蕨持ち風(?)の食感は鶴岡地方の【笹まき】だけだそうです。食べ方はどちらも同じで、黄粉をまぶしたり、最近では黒蜜をかけて食べるそうです。食べ方も全く鹿児島と同じなんですね。
江戸時代には、山形と鹿児島は北前船での取引が行われており、保存食として重宝された鹿児島の【ちまき】が北前船で山形の酒田港に運ばれ広まったものなのでしょうか? 。今でこそ新幹線や飛行機があり、鹿児島と山形などもすぐ行き来が出来ますが当時の先人達の交流にはロマンすら感じるものがあります。


後編へ続く http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-26.html

写真は、鹿児島県市及び山形県市関係のHPより掲示しました。
(鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎)

■鹿児島と山形の交流、いま再び(後編)

前篇より続く http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-25.html
(2010/12/23執筆)
■鹿児島おはら祭と山形花笠まつり
両県には郷土を代表する民謡を中心に練り踊る市民参加型の祭りがあります。
おはらまつり 昭和24年(1949年)に、市制施行60周年を記念して始まった【鹿児島おはらまつり】は、例年11月2・3日に開催され、南国鹿児島の秋を彩るお祭りとして、また南九州を代表するお祭りとして定着しています。 約2万人の踊り手が、鹿児島を代表する民謡「おはら節」・「鹿児島ハンヤ節」・「渋谷音頭」にあわせて練り踊る「総踊り」を中心に、躍動感あふれるダンス「オハラ21」、多くの子供達で賑わう「You遊広場」など、市民参加のいろいろな催しが繰り広げられ賑わっています。 
花笠まつり  【山形花笠まつり】は、 昭和38年(1963年)、山形県、山形市、山形新聞社、山形商工会議所などが中心となり、蔵王の観光開発とPRを目的に開催された「蔵王夏まつり」のイベントの一つ「花笠音頭パレード」が発展したもので、昭和40年(1965年)からは単独の『山形花笠まつり』として行うようになりました。そして、平成5年(1993年)からは、まつりの事務局も山形新聞社から山形商工会議所に移り、より市民参加型のまつりへの変革を目指しています。
例年、8月5・6・7日、山形市内のメインストリートで山形の夏を彩る、また東北を代表する夏まつりの一つとして全国的に親しまれており、今では3日間の人出も100万人超という大きなお祭りとなっています。



■鹿児島の老舗百貨店/山形屋のルーツは山形商人
大正5年の山形屋 鹿児島市の中心市街地に、今年で創業260年の歴史を誇る百貨店【山形屋(やまかたや)】があります。
山形屋の創業は、江戸時代の宝暦元年
(1751)、山形県の庄内地方で生れた呉服商人・源衛門が紅花の取引を始めた時にさかのぼります。当時、源衛門は紅花の取引のほかに呉服太物、古着類を扱い、山形と京都・大阪の問屋を往来していましたが、薩摩藩の「商人招致政策」を知って、新天地での商売に夢を膨らませて安政元年(1772年)に【山形屋】の名で呉服太物の店舗を薩摩に出店したのでした。
山形屋のマークは社章の「まる岩」を山形県花の紅花で囲むようにデザインされています。
以来、「信用第一」「顧客本位」「あくまでも堅実に」を社是として、ふるさとのデパートとして多くのお客様に愛され親しまれ、百貨店冬の時代と言われて久しい今なお、鹿児島市内唯一の百貨店として地元にしっかりと根付いています。創業260年を迎えた山形屋は今、【いつの時代も「新しい」という山形屋の伝統】
をさらに前進させるべく、山形屋グループのトップ企業として地域社会の発展にも幅広く取り組んでいます。
上述の「商人誘致政策」や世界の中の日本をいち早く見つめ西洋文化・技術を取り入れた「薩摩藩主・島津斉彬の近代化政策」に見られるような、鹿児島県人に古くから脈々と流れる【積極進取のバイタリティ】の精神こそが、明治維新を成し遂げ、日本の近代化へと導いたと言えましょう。七福神の育さんの鹿児島県人としての誇りもここにあるのです。

リニューアルされた現在の山形屋 
山形屋HP 
http://www.yamakataya.co.jp/kaisya/index.htm
◆関連グループの百貨店・スーパー
鹿児島県内⇒●川内山形屋 ●国分山形屋 ●山形屋ストア
宮崎県内  ⇒●宮崎山形屋 ●日南山形屋 


■素朴で心ふれあうお国ことば【よもやま話】
◆鹿児島県出身者は方言ですぐわかる
初対面の人のし七福神の育さんの出身地の方言は「がごんま弁(鹿児島弁)」。鹿児島弁でも、九州最南端の西に位置する薩摩地方と東に位置する大隅地方で二ュワンスの違いがありますが鹿児島県人なら理解できる程度の違いです。
鹿児島弁は、中央の言葉とは全く異なる言葉を使うことで情報の漏れを防ぎ、幕府の隠密の侵入を難しくしたり、他国人を言葉で聞き分けるといったことを企図して、薩摩藩が意図的に自国の言葉を作ったという説があります。
確かに、七福神の育さんは、初対面の人でも、言葉だけで鹿児島県出身者かどうか95%わかりますし、名前を聞けば鹿児島のどの地方の出身か大体わかります。スナックでも、隣で飲んでいるの人の言葉を聞いていると鹿児島県人かどうかかわかるので、「おはんな、かごんまん、どこな(あなたは鹿児島の何処出身ですか?)】と声をかけると、「あたや、せんで、ごわんど(私は川内出身です)」と握手を求められ、すぐに打ち解け話が弾みます。こんな具合で、同県人同士、仕事でも助けられることが多いんです。かごんま弁のお陰ですよね。

◆山形鉄道の方言での車窓案内が人気
山形鉄道では、山形弁で車窓の景色案内を行っており人気だそうです。山形鉄道の話によると、「名所がないので地元の言葉でしゃべっているだけ。お客さんが面白がって喜んでくれる」とか。
地方の時代が叫ばれる中、今、日本各地でお国言葉が復権し、観光にも一役買っているようです。青森の津軽鉄道の乗務員さんは車窓案内のほか方言でお客さんの話相手も務め、宮城交通では東京・大阪から仙台方面に向かう高速夜行バスでは仙台便の放送をこの秋から始められたとか新聞でしりました。
わが故郷川内を走る【肥薩おれんじ鉄道】でもこんな取り組みをしたら、薩摩の旅もほのぼの楽しさが増すと思いますが・・・。そういえば、先月乗った、京都/嵯峨野~亀岡を往復走る保津川トロッコ列車には、途中の駅から天狗の格好をした人が乗りこんできて乗客に語りかけ、乗客と一緒に記念写真にも応じていました。無料で。子供も大人も
大喝采でしたよ。


■静岡、山口、青森・・・と広がる鹿児島県の他県交流
山口市の瑠璃光寺五重塔 山形県との交流のほかに、最近の鹿児島県は、九州新幹線の3月12日全線開通を前に他県との地域交流を積極的に進めています。
鹿児島と静岡は【お茶やウナギの産地、遠洋漁業の基地(枕崎と焼津)、富士山と開聞岳(薩摩富士)とのつながり】、山口は【薩長同盟の明治維新つながり】、青森は【九州最南端と本州最北端の2000キロの新幹線つながり】で、観光と産業の地域活性化に向けた県同士の交流が進んできています。その話は、またの機会に譲ることにします。
この情報は、山形テレビ大阪支社の三浦支社長からの情報をもとに調べたものをまとめてみました。ありがとうございました。
  ◆山形のこと知りたいなら山形テレビ【YTSゴジダス】 
      月曜~金曜 午後4:53~午後6:55
   山形県内の話題を伝える地域密着報道人気番組です
      
http://www.yts.co.jp/02/index.html
写真は鹿児島・山形の県市関連HP及び山形屋HPより掲載しました。 
 
(鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎)

川内川治水工事哀話(篠原治二氏コラム)

毎日新聞社の事件記者、編集局長、論説委員を歴任され独特の健筆をふるわれた篠原治二氏(福岡さつま川内会/顧問)が、その経験と能力を活かして篠栗・南蔵院発行の「ほとけの里通信」に執筆中の連載エッセーが6月1日で154回を迎えました。今日は、その人気コラムの中から「シノさんのゆっくり立ち話(154話)」をお届けします。 (2013/6/30執筆)
愛と自己犠牲をおもう    

4月の末、墓参りのため帰郷しました。故郷は、鹿児島県の薩摩川内市です。ぼくの知らないところはないかというと、墓守の姪っ子夫婦は川内川を河口まで車を走らせ、長崎堤防に案内してくれました。ある悲劇的な歴史の跡を見せるために。


■とうとうと流れる川内川の長崎堤防
歴史を語る川内川川内川は、熊本、宮崎、鹿児島の3県にまたがる大河で、私は、川内ガラッパ(河童)の一人として生まれ育ちました。長崎堤防に着いて、びっくりしました。原子力発電所に近い河口手前約4キロ付近で、石積みの堤防は600㍍に及び、ノコギリの歯のような珍しいギザギザ型になっています。これは水の流れを抑制する昔の人の知恵でした。渡る川風が吹きすさぶ中、私は気持ちが高ぶり見て周りました。


■治水難工事に挑んだ小野仙右衛門
島津藩主から普請奉行に任命された小野仙右衛門によって320数年前の貞享4年(1687)に完成した堤防です。周辺の高江地区は川内川の水位よりも低い沼沢地であったので、この一帯を水害から守ると共に稲作ができる一大新田にするための築堤でした。治水工事は命がけでした。

いまのように機械はないから、多くの人夫が集められ、川底の地盤が弱いため築いては流され、また築きなおして8年がかり、ここで哀しい伝説は生まれました。


■難工事で愛娘を人柱に
ある夜、仙右衛門は「横はぎの着物をきた娘を人柱にたてよ」と夢のお告げを受けました。不思議なことに、同じ夢を見た17歳の娘、袈裟は覚悟のうえ着物にわざわざ横布をあてて繕い身を投じてしまう。
仙右衛門は嘆き悲しみお告げのとおり長い縄を川に入れてみると、くねくねと流れ、その形に添って堤防を築いたところやっと完成したというのがあらすじです。
証拠はありません。だが、仙右衛門が崖の壁に彫ったといわれる「心」という文字はじっさいに残っていて、近くの人々は神社を建て遺徳を崇めています。国交省川内川河川事務所の専門調査員、中島純也さんに伺ってみると、ノコギリの歯型は日本では珍しく、効果の実証資料はないものの地域との精神的なつながりが評価され、土木遺産に指定されたという話でした。


■いけにえの人柱の余談
いけにえについては、違ったバージョンもあるそうです。川内川上流の伊佐市には、逆に人夫を酷使した監督が計略にひっかかり、知らぬ間に横布の着物を着せられ人柱にされたという伝説も残っているとのこと。故郷の故事来歴はたいてい知っているつもりでしたが、考えてみると私が故郷にいたのは18歳のときまでで、何も知らなかったことに改めて気づきました。
■人柱神話に寄せられた美智子皇后のメッセージ
人柱伝説の人道的な良し悪しはおき、私はふと美智子皇后が1998年、国際児童図書評議会ニューデリー大会に寄せられたオトタチバナの姫の人柱神話に関する感動的なメッセージを思い出したのです。小さいころ父からもらって読んだ本の物語が忘れられないという趣旨でした。

6世紀の皇子ヤマトタケルの后、オトタチバナは遠征に同行し、海が荒れ危難に遭うと荒ぶる神を鎮めるため人柱として入水し夫を目的地に向かわせました。美智子さまは、美しい別れの歌を紹介しつつ、夫と任務を分かち合う意思的なものと感じたこと、愛はときとして過酷な犠牲を生む・・と綴っておられました。じつはこれ美智子さまのお覚悟と思えてなりません。
(以上、「ほとけの通信」より転載)


■篠原治二(しのはら はるじ)氏のプロフィール
篠原治二氏 1953年、明治大学法学部卒業と同時に毎日新聞社入社。東京本社で事件記者として活躍後、福岡総局長、編集局長(西部)兼論説委員を歴任。コラムに独特の健筆をふるい、テレビ・講演などで親しまれる。著書「えんぴつ巷談」など多数。北九州市立文書館長、北九州市立大学講師、九州リゾート㈱社長を経て、現在毎日新聞社社友、日本マスコミュニケーション学会会員。福岡さつま川内会顧問。
県立川内高校の同窓・同期生に、園田健夫氏(KBC九州朝日放送の報道記者を経て同社専務取締役等歴任)がいる。
■薩摩国一宮「新田神社」と「可愛山稜」 
新田神社 川内には、アマテラスオオミカミ(天照大神)が「 地上は自分の子孫が治めるべきである」と考えて、地上を統治させるために派遣した天照大神の孫に当たる天孫降臨の邇邇芸命(ニニギノミコト)の墓を祀ったのが創始」とされる新田神社があります。
新田神社のある神亀山の5分の4が陵墓の領域で可愛山稜と親しまれ、宮内庁直轄の陵墓として、大正天皇、昭和天皇、今上天皇・美智子皇后はじめ多くの皇族の方々も参拝されています。神社と陵墓が一体となっているのは全国でも珍しい形態だそうです。

■今も崇められる薩摩義士の偉業 
 江戸時代、木曽川、長良川、揖斐川の三大河川の合流する岐阜県南部は大雨のたびに洪水に襲われ、多数の死者も出るなど、永年水害に悩まされ続けていました。このため、幕府は三大河川の治水工事を薩摩藩に命じ、 薩摩藩では、家老の平田靱負(ひらた ゆきえ)が総奉行となって約1,000人の藩士が工事にあたりました。忍耐と苦労を重ね、その当時わが国で最も大きく最も難しいといわれた難工事を、わずか1年半という極めて短い期間で完成させました。人・モノ・金の多大な犠牲を払いながら成し遂げた薩摩義士(さつまぎし)の遺徳は、今もその地域の人々に脈々と語り継がれ崇められています。
七福神の育さんが産まれ育った"ふるさと川内"にもこうした薩摩義士の遺徳があったと知り、あらためて鹿児島県人としての誇りを感じています。


 わが故郷「薩摩川内市」は、歴史と文化に満ちて、山・川・海の自然に恵まれた素朴で心豊かな町です。ぜひ一度、ゆっくり訪れてみてください。新たな発見がきっとあなたの心を癒してくれるでしょう。
2013/6/9執筆。写真の一部は薩摩川内市のHPより掲載しました。
(鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎)  

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ジャンル : 地域情報

■女子managerがドラッカーの『マネジメント』を読んだら…

これまでの七福神の育さんの経験から言えば、景気の動向は、「銀行窓口でのお金の流れ」と「企業広告の出稿状況」を見ればよく分ります。 銀行窓口でのお金の出入りが頻繁であればモノがよく売れている(好景気)ということであり、企業はさらに売り上げを伸ばすために、先ずテレビCMなど広告宣伝を積極的に展開します。反対に、お金の出入りが閑散であればモノがあまり売れなくなってきている(不景気)ということであり、企業は経費の削減をして何とか利益を確保したいと考え、まず最初に、広告宣伝費からを削減していくからです。



 ■景気は回復してきている!!

先月、仕事で東京と大阪のテレビ局30数局を訪問した折、CMスポンサーの出稿状況を尋ねてみました。東京のテレビ局扱いのスポットCMは今年に入り増えてきており、東京の景気はかなり回復してきているようです。日銀短観や各調査機関の統計資料、上場企業の前期決算発表でも景気回復の兆しが見えますが、東京の景気は確かに回復してきていると実感できました。
一方、大阪のテレビ局扱いのスポットCMは減少したままで低迷しており、大阪はまだまだ不景気から抜け出せていないようです。景気の波は東京からスタートし、しばらくして大阪に波及、6ヶ月遅れで九州に届くと昔からよく言われています。そろそろ大阪の景気も底を脱し回復基調に転じ、夏ごろには九州も景気回復の期待が持てそうです。
どの業界でもそうですが、テレビ業界も例外なく「勝ち組」と「負け組」が二極分化しています。いかに「視聴者(顧客)の視点」に立って経営組織が動いているかが「勝ち組」になるポイントのようです。

■東京の本屋さんでみつけた一冊の本

お昼に、たまたま東京の本屋さんの前を通ると【もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら(岩崎夏海著)】という本が目に飛び込んできました。ドラッカーの「マネジメント」というタイトルと表紙絵を見ただけで俄然興味が湧いてきたのです。この本はマンがじゃありません。ビジネス書なんです。 。表紙の帯に、「新人マネージャーと野球部の仲間たちがドラッカーを読んで甲子園を目指す青春小説!」とあり、顧客の視点に立ったマネジメントをテーマにしたでした。まさに今、七福神の育さんが、自分の職場で取り組んでいるテーマであり、早速買い求め、一気に読んでしまいました。 そこには、「勝ち組」になるためのヒントがありました。ご紹介します。

【もし高校野球の女子マネージャーが
  ドラッカーの「マネジメント」を読んだら】ドラッカー 

◆この本のヒロインで、野球部のマネージャーである「みなみ」は、ふとしたことでドラッカーの経営書『マネジメント』に出会います。初めはその本の難しさに戸惑うのですが、読んでいくうちに野球部を強くするのにドラッカーが役立つことに気付きます。
マネージャーとはマネジメントする人なのだから、『マネジメント』を
読んで野球部のマネジメントをしたって問題ないはずと考えた「みなみ」は「われわれの事業は何か」「顧客は誰か」という問いからスタートしているドラッカーの『マネジメント』を、自分の所属する野球部に置き換えてみることにしました。


◆野球部にとっての顧客は誰か?。「みなみ」は野球部の顧客とは野球部に関わる全ての人々、部員から部員の親、教師、学校、地域住民、高野連、高校野球ファンにいたるまで全員と位置づけ、野球部、ひいては高校野球に顧客が求めていることは感動であとの結論に達します。そして感動を与えることこそが野球部のすべきことであり、顧客に感動を与える組織こそが野球部であると定義づけていきます。そして、「みなみ」と親友の夕紀、野球部の仲間たちは、ドラッカーの教えを学びながら、それを野球に活かして力を合わせ、ついに甲子園初出場という目標を達成するのです。 
この本は、ところどころで、ドラッカーの「マネジメント理論」をそのまま引用し、それを物語の中で実践し解説してくれるので、難しい経営理論もよく理解できます。

◆ ぜひ一度、この本、読んでみませんか?
【もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら(岩崎夏海著)】を読んで、マネジメントとはどんなものかを知ったら、ドラッカーの『マネジメント』という難しそうな経営の専門書も理解しやすいと思います…。


■企業が大きくなるにつれ経営に不可欠な「マネジメント」

会社が小さいうちは家族的な経営でもうまくいきますが、会社が大きくなるにつれ、組織的な経営が不可欠となってきます。会社の規模が大きくなると一人の力では限りがありどうにもならなくなって、組織力(チーム力)に頼らざるを得なくなってきます。その組織力を最大限に発揮させ、目標を達成できるように導くのがマネジメントなのです。
「みなみ」に見習って、「われわれの事業は何か」「顧客は誰か」という問いからスタートしているドラッカーの『マネジメント』を、自分の所属する会社組織の中で置き換えて考え、自分の現状の立場と照らし合わせながら実践してみませんか。きっといい結果が生まれると思いますよ。
ドラッカーの『マネジメント』を経営の中で活かすのは、企業が「勝ち組」になるために大変役立つことだと思います。

■ドラッカーとの出会い 『断絶の時代』

七福神の育さんがドラッカーに出会ったのは1968年、大学三年の21歳の時。『断絶の時代~来るべき知識社会の構想~』というドラッカーの経営額専門書がベストセラーになり、当時、経営学を専攻していた育さんはその本を読んで感化され、一端の経営評論家を気取っていたのを覚えています。その本は今も育さんの本棚に並んでいて、学生時代のほろ苦い思い出の本になっています。
ドラッカーの『マネジメント』はその5年後の1973年に出版された「組織経営」の本で、あまたの経営トップや経営管理者に「経営のバイブル書」として広く愛読されています。世界で一番売れた本としてロングセラーとなっていて、最近またブームを呼び起こしています。ドラッカーは、オーストリアで生れたアメリカの経済学者。20世紀最高の知性の一人で、「経営学の父」と呼ばれています。
(鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎) 

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ジャンル : 本・雑誌

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プロフィール

七福神の育さん

Author:七福神の育さん
■本名:新留 育郎
■薩摩川内市出身1946年生
■座右の銘
「敬天愛人」「士魂商才」 
■趣味とスポーツ
「柔道」「家庭菜園」
「絵画鑑賞と史跡散策」 
■愛読書
「野菊の墓」
「翔ぶが如く」
「金子みすず童謡詩集」
■愛唱歌
「北辰斜めにさすところ」
(旧制第七高等学校寮歌)
「吉田松陰」「薩摩の人」
「白い花の咲く頃」
「愛傷歌」「北の旅人」
■好きな俳優/アナウンサー
吉永小百合、有働由美子
小西真由美(川内出身)
■交流会/地域貢献活動
鹿児島県
企業誘致サポーター
薩摩川内市CSサポーター
福岡さつま川内会副会長
福岡県新宮町男女共同参画
 審議会副会長
福岡可愛山同窓会会長
川内高校可愛山同窓会会員
川内高校ひっとぼ会世話人
川内南中学校同窓会会員
山口大学獅子の会世話人  
山口大学鳳陽会会員
山口大学柔道部OB会会員
西銀EDOS会会長
西銀志免会会長
西銀福間会会長
西銀会会員
福岡薩摩五代会会員
七福神+ONEの会世話人
■職歴
大手銀行支店長/本部部長
東証二部上場会社役員
地元放送局関連会社役員
総合広告代理店役員
■現職
HOSJAS企画(同)CEO
地場企業2社顧問

■資格認定
九州観光マスター1級
旅行業務取扱管理者
個人情報保護士
宅地建物取引主任者

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