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■「本気」という詩との出会い

    本  気錦江湾・桜島の朝日

本気ですれば  たいていな事はできる 

本気ですれば  なんでも面白い

本気でしているとたれかが助けてくれる

人間を幸福にするために

本気ではたらいているものは

みんな幸福で  みんなえらい 

(後藤 静香 著 「権威」より抜粋)


■【本気との出会い】     (2010/4/1執筆)

私がこの詩に出会ったのは、今から25年前の1985年。東京三鷹にある地方銀行協会での支店長研修。新米支店長の私は、ここで一週間、全国の地方銀行の支店長さん達と一緒に"支店長としての心構えやマネジメント"を学んだわけですが、そこで、ある大手銀行のベテラン支店長の"明るく大きく考えよう"と題した体験講話があり、その中で紹介していただいたものです。この詩に心をひかれた私はその場でこの詩集を一冊買いました帰りの電車の中で取り出して読んでみると、日ごろ思っていたことが、魔法のような言葉で見事に表現してあり、たちまちその詩のとりこになりました。そこで私は、この感動を周囲のみんなに伝えようと、支店に帰るとすぐさま出版社に電話を入れ、私費で200冊を注文していました。(ちょっと衝動的な面がある七福神の育さんです)


■詩がお客様の共感を呼ぶ

その200冊の本は、お取引先訪問のご挨拶代わりに差し上げたり、銀行窓口にご来店されてこの詩に興味を示された方々にプレゼントして大変喜ばれ、新米支店長の株も上がったものです。そこで私は、大きな模造紙を2枚買ってきて、習字の上手い女子行員のTさんとkさんに、筆で大きく書いてもらい、1枚は来店客向けに、ロビーからよく見える支店長席の後ろの壁に、もう1枚は通行人向けに、銀行正面中央のショーウインドゥの外窓に掲示することにしました。(そう、よくお寺さんの門に張ってある"今月のことば"って感じですね)


■地域密着活動の始まり

これがご来店の皆さまや道行く人々の目を引くようになり、私は在任期間中の2年間、毎月、詩の内容を変えて掲示する羽目になりました。このことが、私が、「銀行という人の集まる場を活用して地域とのかかわりを深め、地域の発展に役立ちたい」と、当時としてはユニークで様々な地域密着活動を展開したきっかけでした。私と支店行員で積極的に取り組んだこの活動は、次第に地域の話題を呼び新聞などマスコミにも取り上げられるようになり、全国金融専門業界紙「ニッキン」の「地域密着貢献賞」を受賞するところとなりました。


■「本気」の詩が、ある倒産会社社長の胸を打つ

ある日の午後。融資窓口の椅子にかけ、私の後ろの「本気」の詩を手帳に一生懸命書き写している初老の男性が目につきました。よく見ると、1か月ほど前に倒産した取引先の社長さんでした。私はそばに行き声をかけ応接室に案内すると、その社長さんは、座りざま、「支店長、私は、会社を守るのに本気じゃなかったんだね。支店長があんなに注意してくれたのに・・・。自分が甘かった。ほんとにわきの甘いお人好しだったんだね。この詩を見てガツンと頭を殴られたようなショックだよ。この詩をしっかり胸に刻んでおこうと思ってね。写していたんだよ。支店長、今度は本気で仕事に取り組んでみるよと真剣なまなざしで言われました。

「社長、社長がその気なら、またやり直せますよ。"人生明るく大きく考えよう"ですよ。倒産といったって、立ち直れないような借金じゃないじゃないですか。技術があるじゃないですかこの詩集を社長にプレゼントします。頑張って下さい。」と言って、私用の最後の一冊を渡しました。

それから2ケ月後、I次長が私のところに駆け込んできて、「支店長、倒産した○○会社の社長さんが来られて、"お前んとこの支店長だけには迷惑はかけられん。俺ガンバル!と伝えといてくれ"と言って融資金を全額返済して帰られましたとのこと。おかげで私は、この支店に在勤中、1社たりとも不良債権を作らずにすみました。それもこれも、この詩のおかげです。 


■後藤 静香 著 「権威」の中から好きな詩を紹介

紹介した詩は、大正時代に書かれた、後藤 静香という人の「権威」という詩集にあります。この詩集には、心に響く、勇気づけてくれるたくさんの詩が掲載されており、私は今でも時々取り出してみては読んでいますその中で私の好きな詩をを紹介します。なお、この本は、もう書店では見かけません・・・。 


   楽しみ玄関先に咲く紅椿

種をまくときは 種まきが楽しみ

草をとるときは 草とりが楽しみ

虫がついたら  虫とりが楽しみ

実ったら とりいれが楽しみ

(後藤 静香 著 「権威」より抜粋)

   

 

  

 

玄関先に咲く白椿 旅人の目       

上っている友が悦んでいう

「誰をみても善い人ばかり

何をしても都合がよい

わたしのような幸福者はない」

下っている友が悲しんでいう

「誰をみても悪いひとばかり

何をしても都合が悪い

わたしのような不孝者はない」

上りの旅と下りの旅とは眼がちがう

(後藤 静香 著 「権威」より抜粋)  

 


   【後藤 静香(ごとう せいこう)】

  1884(明治17年)~1969(昭和44年)

 大分県生れ。大正から昭和にかけての社会教育家。

 生涯に創刊した月刊誌21種、その多くは一人で執筆し、

 その最盛期には購読者百万人をこえたということです 


 (鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎)


テーマ : 生きる
ジャンル : ライフ

■月下美人が咲きました

 20200917_1847 (1) 9月17日夕方。18時半頃から、ほのかな甘い香りを漂わせながら、月下美人のつぼみがゆっくりと開きはじめ、20時半頃満開。白く透き通るような大輪の花を大きく広げ、部屋いっぱいに心地良い強い香りを放っていました。別名「女王花」とも呼ばれ、優雅で妖艶な姿はまるで楊貴妃を思わせます。惜しむらくは美人薄命で、早くも23時頃から徐々に花びらを閉じはじめ、朝方起きてみると、あんなに咲き誇っていた花は儚くしぼんで、だらりと首を垂らしていました。 月下美人は「幻の花」とも言われ、花言葉は、その儚く美しい姿から、「艶やかな美人」「はかない恋」「秘めた情熱」。(右写真 18:47)

 
 20200917_1942 (2) 原産地はメキシコ熱帯雨林地帯でサボテン科・クジャクサボテン属の植物。67月と910月頃の年2回、妖艶な花を咲かせます。
閉じた花は天ぷらやお浸しなどにして食べることができ、古くから薬用としても利用され、台湾では薬膳料理として食べられているそうです。耐寒性が弱くて冬を越させるのが難しく、育てるには油断のできない花です。 (右写真 19:42)


月下美人と孔雀サボテンの見分け方
  月下美人によく似た花に孔雀サボテンがあります。その違いは、
20200917_2044 (3) 【花】月下美人はのみ。孔雀サボテンは紫紅・白・青色を除く虹色、複色混合
【葉】月下美人は葉茎のくぼんだ部分に棘があり、葉は薄くて硬く、濃緑色。孔雀サボテンは棘がなく、葉は肉厚
【香り】月下美人は芳香種で香りが強く、孔雀サボテンは微かに香る種類もありますが香りがないのが大半 (右写真 20:44)

20200917_2141 (4) 【開花】月下美人は年2回、夕方から明け方の一夜だけ咲きますが孔雀サボテンは1回、夕方から翌夕方まで一昼夜咲きます。どちらも、花の命は短くて、この儚さがまた愛好家をときめかせ魅了しているようです。
 【種類】どちらもサボテン科クジャクサボテン属ですが、月下美人は原産地から導入された原種。孔雀サボテンは交配種で種類もすごく多いそうです。
【俳句】 〇妖と開き 煌と香りぬ 月下美人(楠本憲吉 狐客)
夜を一人 月下美人と 居りにけり(松崎鉄之助)
月下美人 たまゆらの香の 満ちにけり(深見けん二) (右写真 21:41)

■月下美人を育てるのにも喜怒哀楽

 20200917_2335 (6) 実は、我家の月下美人はこの5月には5つの蕾を付けていました。5年前に近所の方に株を分けて頂き育てていましたが、こんなに5つも蕾を付けるのは珍しいそうで、咲いたら西日本新聞に投稿しようかなと思ったくらいです。毎朝、蕾の膨らむのを眺めながら、胸をわくわくさせ花が咲くのを楽しみにして待っていました。 (右写真 23:35)
 
20200918_0714 (7)  ところが6月、いよいよ明日か明後日には咲こうかというその日、どうしたことか日課になっていた蕾の観察を忘れてしまいました。翌朝、庭先の月下美人に目をやると、花はしぼんでだらりと垂れ、弱弱しい無残な姿になってていました。夕べの内に5つの蕾が一斉に開花したのでした。今までの期待が一瞬にして失せて大ショック!!  痛恨の極みで、悔しいと言ったらありません。コロナ禍のちょっとした油断がもたらした悲劇でした。この10月には74歳を迎えようとしている19さんも、さすがこれには、少々歳をとったかなとちょっぴり落ち込みました。でも、いつまでも悔やんでばかりいられません。「また来年がある! 楽しみが一年先に伸びただけ・・・」と気を取り直し、開花後の手入れをしている自分がそこにありました。 
(右写真 7:14)

■油断大敵~父が残した戒め~ 
 折しも、開花した前日の9月16日は父の60回忌
。そんな自分に、父が月下美人のサプライズを届けて励ましてくれたのでしょうか。
 
父は、19さんが中学3年の時、芋畑でマムシに噛まれ亡くなりました。当時の医学では、24時間以内に血清注射を打てば毒は消えて治るものとされていました。農業の専門教師をしていてそこらの知識もあり、あんなに用心深かった父が何を戸惑ったのか、診療所で応急手当てをしてもらうと、血清注射も確かめず、その足でマムシの治療によく効くといわれていた温泉治療に行ったのでした。マムシにかまれて動転し、油断したとしか考えられません。「油断大敵」そんなことを思いだたせてくれた昨夜の月下美人でした。
 コロナパンデミックは収束しそうもなく、コロナに感染しない、感染させない為に3つの密を避け、手洗いとウガイをしっかりと励行し、社会も経済も活性化していかなければならない危険と隣り合わせの世の中。どんな時にも、「油断大敵!!」 と心に言い聞かせ、一歩立ち止まって考えながら行動して行かねばと改めて思った次第です。
 
■日はまた昇る 
19さんの若い頃、【明日という字は明るい日と書くのね🎶・・・】という歌が流行りました。人生まだまだこれから。人生100年時代に、充実した日々を出来るだけたくさん過ごせるように夢と希望を持って、Keep on Going!! の姿勢で、日々心新たに、何事にもチャレンジしていきたいと思っています。箱庭の花を育て慈しみながら・・・。 (2020.9.18)
こちらのHPも情報満載。ご覧ください⇒https://hosjas.com/
 
 

■比翼の鳥のように/義父母の生涯(前篇)


七福神の育さんは、これまで64年の人生の中で、「我が師」と敬えるたくさんの人びとに出会いました。
先に、このプログhttp://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-31.htmlでも紹介した川内南中学時代の恩師K先生、大学時代の居候先のT家の人びと、社会人になって最初に勤務した銀行支店の市川慶三取締役支店長(後の西日本銀行頭取)、銀行本店勤務時代の草野武二先輩(後の西日本銀行監査役)・・・。そして、先日他界した義父母も七福神の育さんの大きな心の支えでした。
これら「我が師」については、折を見て、このプログでも紹介していきますが、今回は、昭和の激動の時代を「至誠一貫」、「夫唱婦随」で生き抜いた義父母を偲んで語ってみたいと思います。(2011/8 執筆)

■最期まで用意周到・気配りの人生を貫く・・・
2011年4月4日、義父母は慌ただしく旅立って逝きました。それまで二人は、福岡の長年住み慣れた自宅で、お互いを労わり合いながら、つつましく元気に暮らしておりました。
ところが、4月1日(金)朝、「来週月曜日に入院したいので、今日一緒に付き合ってくれ」と七福神の育さんの妻に電話をしてきました。咳が止まず少し苦しそうでした。その日、妻はお父さんのお伴をして、天神のデパートや銀行を回って入院の準備を手伝ったそうです。それから義父は、自分が入院した後の義母の生活のことを心配して、自分が入院している間、義母もその病院のデイケアセンターを利用できるようにと、自宅近くの病院に入院することに決めたそうです。 義父はいつもそうでした。何事にも慎重で、常に用意周到、周囲への気配りを忘れませんでした。「事を進める時は、準備してもし過ぎることはない・・・。周りの人によく目配りすること」と。

■病院嫌いの頑健な義父が突然入院することに・・・
入院の準備とその後の手配を済ませて義父はしてホッとしたのでしょうか?、翌4月2日(土)朝、「月曜日まで体が持てそうもない・・・」と、予め決めていた自宅近くの病院に駆け込み、そのまま入院しました。
三歳の頃、高熱で一週間も瀕死の世界を彷徨い奇跡ともいわれる回復をとげた義父は、その後はたいした病気もせず、まして入院したこともありませんでした。義父は薬・病院嫌いで、その分だけ、健康には人一倍気をつける人で、食べ物にはうるさくて細心の注意を払っており、早寝早起きを心がけていました。
そんな頑丈な義父が病院に駆け込むのですからよっ程きつかったのだと思います。七福神の育さんの妻は実家に泊まって時々病院に様子を見に行き、義父とおしゃべりしていたそうです。3日(日)夜は親子三人(お母さん、兄さん)が枕を並べて、いつになく、夜遅くまで語り合ったそうです。

■比翼の鳥のように仲睦まじく天国に旅立った義父母
4日早朝、枕元の電話が鳴り、義父の容態が急変したとのこと。受話器をとった義兄の後ろで、飛び起きた義母がショックで倒れ込んでしまいました。妻からその知らせを受けた七福神の育さんは、長女を叩き起こし車を飛ばして病院に駆けつけましたが、時すでに遅く、午前5時、義父は急性肺炎から尿毒症を併発し急逝。
義母はしばらく自宅で安静にしていましたが、ほどなく救急車で義父の眠る病院に運ばれてきました。応急治療を受けてそのまま入院。一時、回復するかに見えましたが、同日正午27分心筋梗塞を併発し、夫の後を追うように安らかに息を引き取りました。 二人とも天命を全うしたような綺麗な死に顔でした。
義父・宮勇行 享年90
才、義母・宮ハマヨ 享年88歳。
余りにも急で信じられない最期でした。しかし、人もうらやむような、仲睦まじく天寿を全うした見事な最期でもありました。
中国唐代の詩人白居易(=白楽天、772-846年)の長編叙事詩「長恨歌」の中iに、【天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん】という詩の一節がありますが、生前、【連理の枝】のようにいつも仲睦まじく誰にも優しかった義父母は、【比翼の鳥】となって仲よく天国に旅立って行ったのでした。


■離れて遠き満州から、命からがらに帰国した義父母
先の世界第二次大戦で関東軍にいて、満州のシベリア国境最前線で戦っていた義父は、「このまま最前線にとどまっていてもロシアの大軍をとても防ぎきれない。ここは一端、撤退して体制を調えてから防御すべし」との師団長の機転(決断)で、終戦の一日前に北朝鮮国境近くまで退却していました。その翌日、ロシアの軍隊が攻め込んできて、最前線の兵隊さん50万人のほとんどがロシア軍の捕虜となりシベリアに抑留されたそうです。危機一髪、シベリア抑留の難を逃れた義父は、暑さと飢えに耐えながら生れ故郷を目指して歩き続け、海を渡り、終戦の年の秋のある朝、実家の庭先にようやくたどり着いきました。


の頃、義母もまた関東軍の憲兵さんに嫁いでいた実姉の出産のお手伝いで満州に渡っていて、満州で終戦を迎えました。身の危険を感じた義母は、実姉さんと一緒に、頭を坊主にして、顔には墨を塗り、ぼろぼろの着物を着て男装し、産まれたばかりの赤ちゃんを抱きながら満州の大地を逃げ惑い、命からがらやっとの思いで、三人とも無事に日本に帰ってこれたようです。それはまるでドラマの世界よりも過酷なのだったといいます。

■自分で運を切り開いた、気丈で意志の強い義父母
義父母は運の強い人でした。というより、自分で運を切り開いた意志の強い人でした。 あの柔和な優しい表情からは想像もつかないくらい、気丈で芯の強い人でした。
生前、義父母が満州にいた事は知っていましたが、この話は通夜と葬儀の時に本家筋の人からはじめて聞かされました。義父母は満州での若い頃の話はほとんど口にしませんでした。余っぽと苦労したのだと思います。思い出したくもないほど、語りたくもないほど過酷で悲惨な体験をしたんだと思います。
そんな義父母は、常々、「一生懸命やれば運はついてくる。一生懸命やれば誰かが助けてくれる。だから、人を裏切るような事をしたらいかん。努力すれば、必ず運は呼び寄せられる」と話していました。

■福岡県警で捜査一筋の人生を夫唱婦随で貫いた義父
福岡県浮羽郡の山村に生まれた同郷の二人は帰国後に知り合い結婚。
復員し手まもなく義父は福岡県警に就職。駐在所勤務をスタートに刑事畑を歩き、県警本部では捜査畑の中枢に長くいて汚職など多くの大事件を手がけ腕をふるい、博多警察署長を経て、地方警察官のトップである福岡中央警察署長を最後に勇退。
その後、福岡市の専門委員として福岡市地下鉄開業や福岡天神地下街の明るい町づくりに尽力した後、自動車学校の校長として70歳まで元気に働きました。勲章4等瑞宝章を受章。

■「至誠一貫」「正々堂々」「誠心誠意」が義父の信条
義父は、福岡県警在職中は、仕事にも自分にも厳しく、一方、部下や周囲の人にはどこまでも優しく、『仏の勇行(ゆうこう)さん』と呼ばれていたそうです。曲がったことが大嫌い。何事にも正々堂々と精神誠意で取り組む義父の姿勢に周囲の誰もが信頼を寄せ、大いに頼りにされていたようです。
事件があると、マスコミの記者の皆さんが、「夜討ち朝駆け」で自宅に押し掛けておられましたが、「せめて応対だけでも誠実に尽くさねば…」と義父母はいやな顔一つせず、にこにこしながらお茶や手料理を振舞っていました。
義父は、「自分が奉職を全うできたのも、気丈で、明るく、愛想のいい家内のお陰」だと話しておりました。
余談ですが、七福神の育さんは、仕事がら全国のテレビ局や新聞社の支社長さん達とよくお会いしますが、若い頃、福岡で報道記者をなさっていらっしゃった方も何人かおられて、義父のことを話すとびっくりされて、「あの勇行(ゆうこう)さんですか。いろいろとお世話になりましたよ。思いやりの深い人でした」と懐かしがってくださいました。人との出会いは不思議なもので何処でどうつながっているのかわからないものですね。


■柔和で優しい義父と明るく茶目っけのある義母
義父は、家庭内にあっても柔和で照れ屋のとてもおとなしい人でした。七福神の育さんはホントによく可愛がってもらいました。銀行の仕事はお金が絡んでいるだけに事件に巻き込まれがちですが、義父はいつもそのことを心配し、問題が起こらないように側面から色々とアドバイスし、支援をしていてくれていました。そのお陰で私が支店長をした支店では、地域やお客様との大きなトラブルは全く起こりませんでした。
ある時、義父は、「小さな失敗は何回やってもいいが、取り返しのつかないような大きな失敗だけは絶対にしたらいかん。大きな失敗をしない為には、物事を始める時にはよく考えて慎重に行動することが肝心。そのためには、日頃からよく本を読み、先輩の話に耳を傾け勉強をしておくこと」と教えてくれました。それ以来、七福神の育さんは事あるごとにその言葉を思いだし、たいした失敗もせずに今まで過ごすことができました。


義母はとにかく明るく愛きょうのいい人で、笑い声の絶えない家でした。いつ訪れても満身の笑みで出迎えてくれ、気分が沈んでいる時でもぱっと心が晴れて、いやな事もすぐに吹き飛んでしまいました。「いつも、にこにこしとかんといかんよ。ムツカシイ顔してたら、なんもかんも(運も)逃げて行くよ」
きゃぁきゃあと孫たちと戯れているあっけらかんの優しい義母でした。そんな義母ですから、二人の孫は大のおばあちゃん子で、親から見ても実に心の優しい女性に育ちました。


こうして、義父母の事を偲びながら綴っていると、義父母の存在がどんなに大きかったか思い知らされています。今はただ、感謝の気持ちでいっぱいで、ご冥福をお祈りするばかりです。
このプログの後編では、新聞で紹介された義父母の記事を掲載して、天国の義父母に捧げたいと思います。


後編へ続く⇒
    http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-43.html 
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テーマ : よく生きる
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■誠実に生きる/義父母の生涯(後編)

 前編より続く⇒ http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-40.html 
                          (2011/8  執筆)
義父は仕事柄、たまに新聞にも顔を出していましたが、照れ屋の義父はそのことを何も言わないので、家族も周囲の人から教えられ、新聞を探し出してあわてて読んでいました。
そんな義父が、珍しく、自分から七福神の育さんにそっと渡してくれた新聞記事がここにあります。おそらく、自分たちの生き方をそれとなく教えてくれたのだと思っています。七福神の育さんにとっては、何物にも代えがたい宝物で、時折取り出して読み直しています。

■亭主の好物”煮込みうどん” ~読売新聞から~
‘煮込みうどん”それも私が自分で作った手打ちうどんしか食べません。義母の新聞紹介記事 娘のころ母が作っていたのをみようみまねで 作ったのが始まりで、それ以来、日曜日には必ずつくっています。
小麦粉に塩を入れ、耳たぶ位の軟らかさになるまでこね、何時間かおいておくのがいいようです。それを伸ばして、切って、ゆでます。これをカツオとコブのだしに肉とタマネギのいためたのと一緒に入れ、薬味にネギを添えた何となくゴチャゴチャしたのが大好きですね。
「まあ、お父さん、そんなに食べていいの」と、言いたくなるほど食べます。だいたいめん類が好きなんですけど、スパゲティだけは「あれは油でこねてあろうが・・・」と言って食べてくれません。
(福岡県警/博多警察署長宮崎勇行夫人 宮はまよさん)
-1975年10月21日読売新聞朝刊掲載-
義母はことのほか料理が好きで、いつも手料理を食卓いっぱいに作ってごちそうしてくれていました。義母の亡くなる前の晩も、義母は娘(七福神の育さんの妻)と一緒に夕食の手料理を作りながらきゃあきゃあ楽しそうにしていたそうです。
その義母に見習い、七福神の育さんの二人の娘たちも料理をつくるのが好きで、家ではよく手料理をふるまってくれますし、4歳になる孫も、炊事場にやってきて料理を作る手伝いを今からしているんですよ。
三歳の時、泥水を飲んで一週間高熱を出して生死の淵をさまよい九死一生を得た義父は、食事にはものすごく気をつけておりました。義母の手料理が健康の源だったようです。

■誠実、仕事はきびしく・・・~毎日新聞から~
      福岡・中央署長を勇退する 宮勇行氏(56)
まやかし、はったり、それにへつらいもおよそ縁遠い。義父の新聞紹介記事   
「誠実」という言葉がこの人ほどぴったりする人は少ない。 
三十三年、警部昇任試験の時、本部長の口述試験で自分の長所と短所を問われ、「長所は、人の意見や話に率直に耳を傾け、受け入れる。短所は”腹”で仕事をするのが不得意でなので修業を要する」と答えたそうだ。
それから20年。”腹芸”はとうとう”定年”jまで修行足らず。 
「でも、これで良かったと思っています。ごまかしやはったりは長続きしない。自分に正直なのが一番いい。信頼もそこからしか生まれません。」
一線では八年余と捜査二課が長く、汚職事件など多く手掛けた。「仕事には厳しく緻密」「曲がったことが大嫌い」
当時の部下の宮評。
捜査二課長も含め事件の中枢畑にいただけに夜中の電話報告だけではなく記者連中にの夜討朝駆けでずいぶん私生活を脅かされた。だが、いつ訪れてもいやな顔を見せない。これには”強心臓”を自負する事件記者も恐縮。
「夜も寝ないで取材に来るのに捜査上言えない事がある。心の中ではいつも済まないと思っていました。せめて応対だけでも誠意を尽くさねば・・・」---。
陸軍工科学校(神奈川県)を出て終戦の年まで4年間余り関東軍に所属し、満州(中国東北部)iいた。
「9月に復員、家業の農業を手伝っていましたが、ブラブラしていても仕方がない。同じ働くならきちんとしたところで・・・」---。
20年12月に警察官になった。依頼31年8ヶ月。地元警察官の最高ポスト、福岡・中央警察署長を最後に第二の人生のスタートを切る。(福岡市の専門委員として地下鉄開業、天神地下街の町づくりの仕事が待っている)。
「上司、同僚、部下、人に恵まれました。仕事は厳しい面もありましたが、努力が報われいい職場でした。」
浮羽郡浮羽町小塩出身 福岡市西区で妻はまよさん(53)と長男の3人暮らし。
-1977年8月22日(月)毎日新聞朝刊掲載 -
義父は物静かで実に優しい人でした。脚が軽くて、家にいる時は、炊事場にも立つし、家の掃除、風呂の掃除、庭の掃除・・・よくしていました。怒った顔を見た事がありません。七福神の育さんの二人の娘も、おじいちゃん、おばあちゃん子で、とても可愛がってもらいました。二人の娘はおじいちゃんおばあちゃんの姿をみて育ったようなものです。
「とにかく人は誠実でなくちゃいかん。人に裏切られることはあっても、人を裏切るような事だけはしてはいかん。」
「小さな失敗はなんぼしてもいい。それが成長につながる。しかし、取り返しのつかない大きい失敗だけは絶対にしちゃいかん。それは一生かかっても容易には取り返せない・・・。」
。義父の七福神の育さんへの教えでした。
関東軍での生死を彷徨う体験や31年の警察の事件畑での体験から行き着いた心底からの人生訓だったのでしょう。義父母にはいろいろと助けられました。ただただ感謝するばかりです。
今は仕事で無理ですが、七福神の育さんが70歳を過ぎて時間2余裕ができれば、義父母の歩いてきた足跡をたどって「本」を書いてみたいと思っています。

前篇はこちら⇒  http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-40.html 

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テーマ : 生きることは学ぶこと
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■「置かれた場所で咲きなさい」

昼休み福岡天神の本屋さんの前を通りかかったて見かけた本『置かれた場所で咲きなさい』幻冬舎。
教育者の家庭に生まれ、大学院卒業後、ノートルダム修道会に入りアメリカに派遣され、帰国後まもなく36歳の若さでノートルダム清心女子大学の学長に抜擢され、マザー・テレサ来日の折は、マザー・テレサの通訳・アシストとして終始付き添われたノートルダム清心学園理事長
【渡辺和子】さんの、いま最も読まれているベストセラー
(1000円)。本の薄さの割にはちょっと高いけど、内容は価格以上でお買い得。早速読んで共感した七福神の育さんは、会社の同僚、知人のYさん、友人のHちゃん、そして我が娘Mちゃんに紹介。「いい本ですね。ありがとう」のメッセージ。そこで、このプログで皆さんにもその一部を紹介することにしました。宗教に関係なく人の心を打ち、元気を与えてくれる一冊です。あなたも読んでみませんか。(2012/7/25 執筆)

置かれた場所でさきなさい ■置かれた場所で咲きなさい
人は境遇を選ぶことはできないが、生き方を選ぶことはできる。「現在」というかけがえのない時間を精一杯生きよう。どんなところに置かれても花を咲かせる心を持ち続けよう。人はどんな場所でも幸せを見つけることが出来るのです。
■人はどんな境遇でも輝ける
結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが次々にでてきます。
そんな状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない時、そんな時には無理して咲かなくてもいい。根を下へ下へと下ろして根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。つらい日
々も、笑える日に繋がるのですから。つらい夜でも朝は必ず来るのですから。
■あなたは大切だ。生きるだけの価値がある
人間の価値は、何ができるか、できないかだけにあるのではなく、一人のかけがえのない「存在」
として「大切」なのであり、「宝石」なのです。あなたが大切だと誰かに言ってもらえるだけで人は生きていける。人はみな愛情に飢えている。存在を認められるだけで人はもっと強くなれるんです。
■信頼は98%。あとの2%は許すための「ゆとり」
人間は不完全なものです。それだから100%信頼するから、許せなくなる。人間は決して完全にわかりあえない。だからどれほど相手を信頼していても、「100%信頼してはだめよ。98%にしなさい。後の2%は相手が間違った時の許しのためにとっておきなさい。」と私は言っています。「人間は神様じゃないんだから、間違ってもいいんですよ」とそういう2%のゆとりが大切だと思うのです。心に2%のゆとりがあれば、相手の間違いを許すことができるんです。

最後にもうひとつ、
■希望にはかなわないものもあるが、大切なのは希望を持ち続けること。迷うことができるのも、一つの恵み、一つの幸せ
■七福神の育さんの社会人生活を振り返って
七福神の育さんは、大学卒業後、銀行に入行。広島の初任支店で、「出納⇒預金⇒貸付」の窓口業務をマスター。9ヶ月後に、福岡の本店の電算センターに。そこでコンピューターと出合い、「データ入力・チェック)⇒コンピューターオペレータ⇒プログラマー⇒システム企画設計」と8年間でコンピュータ運営に関する全ての部署で銀行事務のコンピュータ処理化(オフライン処理からオンライン処理まで)に従事。
その後、推されて従業員3000人を束ねる職員組合に執行役員として専従。労務・人事問題の改善に労使協調の姿勢で携わり、全国の銀行の労働組合の皆さんとの交流も深めました。その間、経営不振に陥ったT相互銀行の吸収合併、業界初の普通銀行転換という銀行の歴史的事業にも遭遇し、職員組合の立場で協力支援。
5年間の職員組合役員生活を経て銀行現場に復帰。人事部より希望配属先を打診されすぐさま営業現場を希望。「それでよろしいんですか?本部でも支店でも今までの経験を生かせるポジションを用意しますが・・・?」 との人事部長のご配慮を断って「得意先次長」の肩書で営業店へ。夜遅くまでカブ号に乗って、若手行員と一緒にお客さまを訪問し「預金と融資」の提案営業に邁進。みんなの努力が実って2年間連続最優秀店舗となり38歳で福岡近郊の支店長に。
そこでは、地域の企業の社長さん達と【地域交流飛翔会】なる組織を作り【地域密着・地域活性化】に全力傾注し、その結果、役場や婦人会、小中学校のPTA役員の皆さんなど地域の信頼と期待と集める所となり、支店の業績もウナギ登りでこれまた2年連続優秀店舗表彰受賞。全国の銀行でも話題となり、東京にある銀行協会の研修所で何回か管理者や支店長向けに講義もする羽目になりました。 今でも【地域交流飛翔会】の当時のメンバーとの交流は続いています。
その後の大型店舗支店長時代はバブル崩壊で一転苦労の連続で、朝5時に起きて3社参りをして銀行に出勤する場面も3ヶ月ありました。それから後は営業本部に赴任。「営業推進⇒営業管理⇒営業企画」と全店の営業を統括する部署で営業推進し、再び、郊外のブロック長で営業第一線へ。
そしてまた営業本部を経て53歳の時、銀行とは畑違いの、お取引先で東証2部の食品メーカーに役員として出向。そこでは、営業管理担当の後、特務担当として海外事業、通販事業の新規事業に携わり、東アジア、アメリカに何回も足を運びました。60歳で役員定年。
運よく、敬愛する先輩の助力もあり、某ラジオ放送局の社長が声をかけて下さり、こだわりの焼酎造りの会社設立とラジオショッピング事業の手伝いをすることになりここでもまた未知の仕事に全力傾注。皆さんの協力があって1年半でほぼ初期の目的を達成したところで円満転職。
今は、地元の総合広告代理店で全国のテレビ局や新聞社を相手に素晴らしい若い仲間達と一緒に奮闘中。その合間に、鹿児島県や薩摩川内市の地域活性化のために、ボランティア活動二励みながら充実した日々を送っています。
いろいろと自分の過去を振り返ってきましたが、七福神の育さんは、これらの日々を、「ホントに充実していたな。我ながらよく努力したな」と誇りに思います。それも周囲の皆さんのお陰!! その原点は、私が23歳で本部に赴任した際の上司で今は亡き草野主任(後の銀行監査役)に、「あなたは、これからスペシャリストを目指しますか?ゼネラリストを目指しますか?」と問われた時、即座に、「勿論、ゼネラリストです」と答え、「それなら自分がその方針であなたを育てるからそれでついてくるか」と言われた事にありました。
それ以来、七福人の育さんは、その信念を貫き通してきました。職員組合役員を退任する時、人事部長に、「営業経験がないのにいきなり営業で大丈夫ですか?」と問われた時に、「大丈夫です」と即座に答えられたのも、「営業の相手は人。人との交わりはこれまで十分に学んできた。営業のノウハウは1ヶ月もあれば十分。自分には営業のスペシャリストが持っていない知識と技術と経験と人脈ががいっぱいある」と自信かがあったからです。何よりも、「環境適応力が強い}というのが七福神の育さんの長所でしたから。
そう、渡辺和子さんの言う、「置かれた場所で花を咲かせなさい」ということを実践していたんだと今確信しています。それは、小生が中学3年の時に他界した父の口癖、「少年老い易く学成り難し」「なんでもいいから勉強しとけ」という教えがあったからだと思います。 それが心の支えとなっているんだと思います。
この本に自分を重ねながら、七福神の育さんまだまだ元気。これからが青春の気概でこれからもがんばりますよ!!
■親友のHちゃんからススメられた【責めず、比べず、思い出さず】
 ~苦しまない生き方 禅と大脳生理学に学ぶ知恵~
この苦しみに満ちている世界、人生において、心が楽になり、生を充実させるための具体的な実践方法を示しています。不安、心配、意欲の減退、自責などの感情は薬では治せず、自分の心で治すしかないと説く。「心のもち方」「言葉」「呼吸」「坐禅」「写経、読経」の中から、どれか一つを実践すれば、晴ればれとした人生に!!。『置かれた場所で咲きなさい』と一緒に読めば、さらに人生が楽しくなる一冊です。Hちゃんありがとう。 
責めず比べず思い出さず       山口市の瑠璃光寺五重塔 
         高田明和 著           七福神の育さんの好きな山口瑠璃光寺の秋
(鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎)

テーマ : 楽しく生きる
ジャンル : ライフ

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プロフィール

七福神の育さん

Author:七福神の育さん
■本名:新留 育郎
■薩摩川内市出身1946年生
■座右の銘
「敬天愛人」「士魂商才」 
■趣味とスポーツ
「柔道」「家庭菜園」
「絵画鑑賞と史跡散策」 
■愛読書
「野菊の墓」
「翔ぶが如く」
「金子みすず童謡詩集」
■愛唱歌
「北辰斜めにさすところ」
(旧制第七高等学校寮歌)
「吉田松陰」「薩摩の人」
「白い花の咲く頃」
「愛傷歌」「北の旅人」
■好きな俳優/アナウンサー
吉永小百合、有働由美子
小西真由美(川内出身)
■交流会/地域貢献活動
鹿児島県
 企業誘致サポーター
薩摩川内市 
 CSサポーター
新宮町男女共同参画
 審議会副会長
福岡さつま川内会副会長
福岡可愛山同窓会代表顧問
川内高校可愛山同窓会会員
川内高校ひっとぼ会世話人
川内南中学校同窓会会員
山口大学獅子の会世話人  
山口大学鳳陽会会員
山口大学柔道部OB会会員
西銀EDOS会会長
西銀志免会会長
西銀福間会会長
西銀会会員
福岡薩摩五代会会員
七福神+ONEの会世話人
■職歴
大手銀行支店長/本部部長
東証二部上場会社役員
地元放送局関連会社役員
総合広告代理店役員
■現職
HOSJAS企画(同)CEO
地場企業2社顧問
■資格認定
九州観光マスター1級
旅行業務取扱管理者
個人情報保護士
宅地建物取引主任者

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