■比翼の鳥のように/義父母の生涯(前篇)
七福神の育さんは、これまで64年の人生の中で、「我が師」と敬えるたくさんの人びとに出会いました。
先に、このプログhttp://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-31.htmlでも紹介した川内南中学時代の恩師K先生、大学時代の居候先のT家の人びと、社会人になって最初に勤務した銀行支店の市川慶三取締役支店長(後の西日本銀行頭取)、銀行本店勤務時代の草野武二先輩(後の西日本銀行監査役)・・・。そして、先日他界した義父母も七福神の育さんの大きな心の支えでした。
これら「我が師」については、折を見て、このプログでも紹介していきますが、今回は、昭和の激動の時代を「至誠一貫」、「夫唱婦随」で生き抜いた義父母を偲んで語ってみたいと思います。(2011/8 執筆)
■最期まで用意周到・気配りの人生を貫く・・・
2011年4月4日、義父母は慌ただしく旅立って逝きました。それまで二人は、福岡の長年住み慣れた自宅で、お互いを労わり合いながら、つつましく元気に暮らしておりました。
ところが、4月1日(金)朝、「来週月曜日に入院したいので、今日一緒に付き合ってくれ」と七福神の育さんの妻に電話をしてきました。咳が止まず少し苦しそうでした。その日、妻はお父さんのお伴をして、天神のデパートや銀行を回って入院の準備を手伝ったそうです。それから義父は、自分が入院した後の義母の生活のことを心配して、自分が入院している間、義母もその病院のデイケアセンターを利用できるようにと、自宅近くの病院に入院することに決めたそうです。 義父はいつもそうでした。何事にも慎重で、常に用意周到、周囲への気配りを忘れませんでした。「事を進める時は、準備してもし過ぎることはない・・・。周りの人によく目配りすること」と。
■病院嫌いの頑健な義父が突然入院することに・・・
入院の準備とその後の手配を済ませて義父はしてホッとしたのでしょうか?、翌4月2日(土)朝、「月曜日まで体が持てそうもない・・・」と、予め決めていた自宅近くの病院に駆け込み、そのまま入院しました。
三歳の頃、高熱で一週間も瀕死の世界を彷徨い奇跡ともいわれる回復をとげた義父は、その後はたいした病気もせず、まして入院したこともありませんでした。義父は薬・病院嫌いで、その分だけ、健康には人一倍気をつける人で、食べ物にはうるさくて細心の注意を払っており、早寝早起きを心がけていました。
そんな頑丈な義父が病院に駆け込むのですからよっ程きつかったのだと思います。七福神の育さんの妻は実家に泊まって時々病院に様子を見に行き、義父とおしゃべりしていたそうです。3日(日)夜は親子三人(お母さん、兄さん)が枕を並べて、いつになく、夜遅くまで語り合ったそうです。
■比翼の鳥のように仲睦まじく天国に旅立った義父母
4日早朝、枕元の電話が鳴り、義父の容態が急変したとのこと。受話器をとった義兄の後ろで、飛び起きた義母がショックで倒れ込んでしまいました。妻からその知らせを受けた七福神の育さんは、長女を叩き起こし車を飛ばして病院に駆けつけましたが、時すでに遅く、午前5時、義父は急性肺炎から尿毒症を併発し急逝。
義母はしばらく自宅で安静にしていましたが、ほどなく救急車で義父の眠る病院に運ばれてきました。応急治療を受けてそのまま入院。一時、回復するかに見えましたが、同日正午27分心筋梗塞を併発し、夫の後を追うように安らかに息を引き取りました。 二人とも天命を全うしたような綺麗な死に顔でした。
義父・宮勇行 享年90才、義母・宮ハマヨ 享年88歳。
余りにも急で信じられない最期でした。しかし、人もうらやむような、仲睦まじく天寿を全うした見事な最期でもありました。
中国唐代の詩人白居易(=白楽天、772-846年)の長編叙事詩「長恨歌」の中iに、【天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん】という詩の一節がありますが、生前、【連理の枝】のようにいつも仲睦まじく誰にも優しかった義父母は、【比翼の鳥】となって仲よく天国に旅立って行ったのでした。
■離れて遠き満州から、命からがらに帰国した義父母
先の世界第二次大戦で関東軍にいて、満州のシベリア国境最前線で戦っていた義父は、「このまま最前線にとどまっていてもロシアの大軍をとても防ぎきれない。ここは一端、撤退して体制を調えてから防御すべし」との師団長の機転(決断)で、終戦の一日前に北朝鮮国境近くまで退却していました。その翌日、ロシアの軍隊が攻め込んできて、最前線の兵隊さん50万人のほとんどがロシア軍の捕虜となりシベリアに抑留されたそうです。危機一髪、シベリア抑留の難を逃れた義父は、暑さと飢えに耐えながら生れ故郷を目指して歩き続け、海を渡り、終戦の年の秋のある朝、実家の庭先にようやくたどり着いきました。
その頃、義母もまた関東軍の憲兵さんに嫁いでいた実姉の出産のお手伝いで満州に渡っていて、満州で終戦を迎えました。身の危険を感じた義母は、実姉さんと一緒に、頭を坊主にして、顔には墨を塗り、ぼろぼろの着物を着て男装し、産まれたばかりの赤ちゃんを抱きながら満州の大地を逃げ惑い、命からがらやっとの思いで、三人とも無事に日本に帰ってこれたようです。それはまるでドラマの世界よりも過酷なのだったといいます。
■自分で運を切り開いた、気丈で意志の強い義父母
義父母は運の強い人でした。というより、自分で運を切り開いた意志の強い人でした。 あの柔和な優しい表情からは想像もつかないくらい、気丈で芯の強い人でした。
生前、義父母が満州にいた事は知っていましたが、この話は通夜と葬儀の時に本家筋の人からはじめて聞かされました。義父母は満州での若い頃の話はほとんど口にしませんでした。余っぽと苦労したのだと思います。思い出したくもないほど、語りたくもないほど過酷で悲惨な体験をしたんだと思います。
そんな義父母は、常々、「一生懸命やれば運はついてくる。一生懸命やれば誰かが助けてくれる。だから、人を裏切るような事をしたらいかん。努力すれば、必ず運は呼び寄せられる」と話していました。
■福岡県警で捜査一筋の人生を夫唱婦随で貫いた義父
福岡県浮羽郡の山村に生まれた同郷の二人は帰国後に知り合い結婚。
復員し手まもなく義父は福岡県警に就職。駐在所勤務をスタートに刑事畑を歩き、県警本部では捜査畑の中枢に長くいて汚職など多くの大事件を手がけ腕をふるい、博多警察署長を経て、地方警察官のトップである福岡中央警察署長を最後に勇退。
その後、福岡市の専門委員として福岡市地下鉄開業や福岡天神地下街の明るい町づくりに尽力した後、自動車学校の校長として70歳まで元気に働きました。勲章4等瑞宝章を受章。
■「至誠一貫」「正々堂々」「誠心誠意」が義父の信条
義父は、福岡県警在職中は、仕事にも自分にも厳しく、一方、部下や周囲の人にはどこまでも優しく、『仏の勇行(ゆうこう)さん』と呼ばれていたそうです。曲がったことが大嫌い。何事にも正々堂々と精神誠意で取り組む義父の姿勢に周囲の誰もが信頼を寄せ、大いに頼りにされていたようです。
事件があると、マスコミの記者の皆さんが、「夜討ち朝駆け」で自宅に押し掛けておられましたが、「せめて応対だけでも誠実に尽くさねば…」と義父母はいやな顔一つせず、にこにこしながらお茶や手料理を振舞っていました。
義父は、「自分が奉職を全うできたのも、気丈で、明るく、愛想のいい家内のお陰」だと話しておりました。
余談ですが、七福神の育さんは、仕事がら全国のテレビ局や新聞社の支社長さん達とよくお会いしますが、若い頃、福岡で報道記者をなさっていらっしゃった方も何人かおられて、義父のことを話すとびっくりされて、「あの勇行(ゆうこう)さんですか。いろいろとお世話になりましたよ。思いやりの深い人でした」と懐かしがってくださいました。人との出会いは不思議なもので何処でどうつながっているのかわからないものですね。
■柔和で優しい義父と明るく茶目っけのある義母
義父は、家庭内にあっても柔和で照れ屋のとてもおとなしい人でした。七福神の育さんはホントによく可愛がってもらいました。銀行の仕事はお金が絡んでいるだけに事件に巻き込まれがちですが、義父はいつもそのことを心配し、問題が起こらないように側面から色々とアドバイスし、支援をしていてくれていました。そのお陰で私が支店長をした支店では、地域やお客様との大きなトラブルは全く起こりませんでした。
ある時、義父は、「小さな失敗は何回やってもいいが、取り返しのつかないような大きな失敗だけは絶対にしたらいかん。大きな失敗をしない為には、物事を始める時にはよく考えて慎重に行動することが肝心。そのためには、日頃からよく本を読み、先輩の話に耳を傾け勉強をしておくこと」と教えてくれました。それ以来、七福神の育さんは事あるごとにその言葉を思いだし、たいした失敗もせずに今まで過ごすことができました。
義母はとにかく明るく愛きょうのいい人で、笑い声の絶えない家でした。いつ訪れても満身の笑みで出迎えてくれ、気分が沈んでいる時でもぱっと心が晴れて、いやな事もすぐに吹き飛んでしまいました。「いつも、にこにこしとかんといかんよ。ムツカシイ顔してたら、なんもかんも(運も)逃げて行くよ」と。
きゃぁきゃあと孫たちと戯れているあっけらかんの優しい義母でした。そんな義母ですから、二人の孫は大のおばあちゃん子で、親から見ても実に心の優しい女性に育ちました。
こうして、義父母の事を偲びながら綴っていると、義父母の存在がどんなに大きかったか思い知らされています。今はただ、感謝の気持ちでいっぱいで、ご冥福をお祈りするばかりです。
このプログの後編では、新聞で紹介された義父母の記事を掲載して、天国の義父母に捧げたいと思います。
後編へ続く⇒
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(鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎)
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