■誠実に生きる/義父母の生涯(後編)
前編より続く⇒ http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-40.html
(2011/8 執筆)
義父は仕事柄、たまに新聞にも顔を出していましたが、照れ屋の義父はそのことを何も言わないので、家族も周囲の人から教えられ、新聞を探し出してあわてて読んでいました。
そんな義父が、珍しく、自分から七福神の育さんにそっと渡してくれた新聞記事がここにあります。おそらく、自分たちの生き方をそれとなく教えてくれたのだと思っています。七福神の育さんにとっては、何物にも代えがたい宝物で、時折取り出して読み直しています。
■亭主の好物”煮込みうどん” ~読売新聞から~
‘煮込みうどん”それも私が自分で作った手打ちうどんしか食べません。
娘のころ母が作っていたのをみようみまねで 作ったのが始まりで、それ以来、日曜日には必ずつくっています。
小麦粉に塩を入れ、耳たぶ位の軟らかさになるまでこね、何時間かおいておくのがいいようです。それを伸ばして、切って、ゆでます。これをカツオとコブのだしに肉とタマネギのいためたのと一緒に入れ、薬味にネギを添えた何となくゴチャゴチャしたのが大好きですね。
「まあ、お父さん、そんなに食べていいの」と、言いたくなるほど食べます。だいたいめん類が好きなんですけど、スパゲティだけは「あれは油でこねてあろうが・・・」と言って食べてくれません。
(福岡県警/博多警察署長宮崎勇行夫人 宮はまよさん)
-1975年10月21日読売新聞朝刊掲載-
義母はことのほか料理が好きで、いつも手料理を食卓いっぱいに作ってごちそうしてくれていました。義母の亡くなる前の晩も、義母は娘(七福神の育さんの妻)と一緒に夕食の手料理を作りながらきゃあきゃあ楽しそうにしていたそうです。
その義母に見習い、七福神の育さんの二人の娘たちも料理をつくるのが好きで、家ではよく手料理をふるまってくれますし、4歳になる孫も、炊事場にやってきて料理を作る手伝いを今からしているんですよ。
三歳の時、泥水を飲んで一週間高熱を出して生死の淵をさまよい九死一生を得た義父は、食事にはものすごく気をつけておりました。義母の手料理が健康の源だったようです。
■誠実、仕事はきびしく・・・~毎日新聞から~
福岡・中央署長を勇退する 宮勇行氏(56)
まやかし、はったり、それにへつらいもおよそ縁遠い。
「誠実」という言葉がこの人ほどぴったりする人は少ない。
三十三年、警部昇任試験の時、本部長の口述試験で自分の長所と短所を問われ、「長所は、人の意見や話に率直に耳を傾け、受け入れる。短所は”腹”で仕事をするのが不得意でなので修業を要する」と答えたそうだ。
それから20年。”腹芸”はとうとう”定年”jまで修行足らず。
「でも、これで良かったと思っています。ごまかしやはったりは長続きしない。自分に正直なのが一番いい。信頼もそこからしか生まれません。」
一線では八年余と捜査二課が長く、汚職事件など多く手掛けた。「仕事には厳しく緻密」「曲がったことが大嫌い」
当時の部下の宮評。
捜査二課長も含め事件の中枢畑にいただけに夜中の電話報告だけではなく記者連中にの夜討朝駆けでずいぶん私生活を脅かされた。だが、いつ訪れてもいやな顔を見せない。これには”強心臓”を自負する事件記者も恐縮。
「夜も寝ないで取材に来るのに捜査上言えない事がある。心の中ではいつも済まないと思っていました。せめて応対だけでも誠意を尽くさねば・・・」---。
陸軍工科学校(神奈川県)を出て終戦の年まで4年間余り関東軍に所属し、満州(中国東北部)iいた。
「9月に復員、家業の農業を手伝っていましたが、ブラブラしていても仕方がない。同じ働くならきちんとしたところで・・・」---。
20年12月に警察官になった。依頼31年8ヶ月。地元警察官の最高ポスト、福岡・中央警察署長を最後に第二の人生のスタートを切る。(福岡市の専門委員として地下鉄開業、天神地下街の町づくりの仕事が待っている)。
「上司、同僚、部下、人に恵まれました。仕事は厳しい面もありましたが、努力が報われいい職場でした。」
浮羽郡浮羽町小塩出身 福岡市西区で妻はまよさん(53)と長男の3人暮らし。
-1977年8月22日(月)毎日新聞朝刊掲載 -
義父は物静かで実に優しい人でした。脚が軽くて、家にいる時は、炊事場にも立つし、家の掃除、風呂の掃除、庭の掃除・・・よくしていました。怒った顔を見た事がありません。七福神の育さんの二人の娘も、おじいちゃん、おばあちゃん子で、とても可愛がってもらいました。二人の娘はおじいちゃんおばあちゃんの姿をみて育ったようなものです。
「とにかく人は誠実でなくちゃいかん。人に裏切られることはあっても、人を裏切るような事だけはしてはいかん。」
「小さな失敗はなんぼしてもいい。それが成長につながる。しかし、取り返しのつかない大きい失敗だけは絶対にしちゃいかん。それは一生かかっても容易には取り返せない・・・。」。義父の七福神の育さんへの教えでした。
関東軍での生死を彷徨う体験や31年の警察の事件畑での体験から行き着いた心底からの人生訓だったのでしょう。義父母にはいろいろと助けられました。ただただ感謝するばかりです。
今は仕事で無理ですが、七福神の育さんが70歳を過ぎて時間2余裕ができれば、義父母の歩いてきた足跡をたどって「本」を書いてみたいと思っています。
前篇はこちら⇒ http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-40.html
(鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎)
(2011/8 執筆)
義父は仕事柄、たまに新聞にも顔を出していましたが、照れ屋の義父はそのことを何も言わないので、家族も周囲の人から教えられ、新聞を探し出してあわてて読んでいました。
そんな義父が、珍しく、自分から七福神の育さんにそっと渡してくれた新聞記事がここにあります。おそらく、自分たちの生き方をそれとなく教えてくれたのだと思っています。七福神の育さんにとっては、何物にも代えがたい宝物で、時折取り出して読み直しています。
■亭主の好物”煮込みうどん” ~読売新聞から~
‘煮込みうどん”それも私が自分で作った手打ちうどんしか食べません。

小麦粉に塩を入れ、耳たぶ位の軟らかさになるまでこね、何時間かおいておくのがいいようです。それを伸ばして、切って、ゆでます。これをカツオとコブのだしに肉とタマネギのいためたのと一緒に入れ、薬味にネギを添えた何となくゴチャゴチャしたのが大好きですね。
「まあ、お父さん、そんなに食べていいの」と、言いたくなるほど食べます。だいたいめん類が好きなんですけど、スパゲティだけは「あれは油でこねてあろうが・・・」と言って食べてくれません。
(福岡県警/博多警察署長宮崎勇行夫人 宮はまよさん)
-1975年10月21日読売新聞朝刊掲載-
義母はことのほか料理が好きで、いつも手料理を食卓いっぱいに作ってごちそうしてくれていました。義母の亡くなる前の晩も、義母は娘(七福神の育さんの妻)と一緒に夕食の手料理を作りながらきゃあきゃあ楽しそうにしていたそうです。
その義母に見習い、七福神の育さんの二人の娘たちも料理をつくるのが好きで、家ではよく手料理をふるまってくれますし、4歳になる孫も、炊事場にやってきて料理を作る手伝いを今からしているんですよ。
三歳の時、泥水を飲んで一週間高熱を出して生死の淵をさまよい九死一生を得た義父は、食事にはものすごく気をつけておりました。義母の手料理が健康の源だったようです。
■誠実、仕事はきびしく・・・~毎日新聞から~
福岡・中央署長を勇退する 宮勇行氏(56)
まやかし、はったり、それにへつらいもおよそ縁遠い。

「誠実」という言葉がこの人ほどぴったりする人は少ない。
三十三年、警部昇任試験の時、本部長の口述試験で自分の長所と短所を問われ、「長所は、人の意見や話に率直に耳を傾け、受け入れる。短所は”腹”で仕事をするのが不得意でなので修業を要する」と答えたそうだ。
それから20年。”腹芸”はとうとう”定年”jまで修行足らず。
「でも、これで良かったと思っています。ごまかしやはったりは長続きしない。自分に正直なのが一番いい。信頼もそこからしか生まれません。」
一線では八年余と捜査二課が長く、汚職事件など多く手掛けた。「仕事には厳しく緻密」「曲がったことが大嫌い」
当時の部下の宮評。
捜査二課長も含め事件の中枢畑にいただけに夜中の電話報告だけではなく記者連中にの夜討朝駆けでずいぶん私生活を脅かされた。だが、いつ訪れてもいやな顔を見せない。これには”強心臓”を自負する事件記者も恐縮。
「夜も寝ないで取材に来るのに捜査上言えない事がある。心の中ではいつも済まないと思っていました。せめて応対だけでも誠意を尽くさねば・・・」---。
陸軍工科学校(神奈川県)を出て終戦の年まで4年間余り関東軍に所属し、満州(中国東北部)iいた。
「9月に復員、家業の農業を手伝っていましたが、ブラブラしていても仕方がない。同じ働くならきちんとしたところで・・・」---。
20年12月に警察官になった。依頼31年8ヶ月。地元警察官の最高ポスト、福岡・中央警察署長を最後に第二の人生のスタートを切る。(福岡市の専門委員として地下鉄開業、天神地下街の町づくりの仕事が待っている)。
「上司、同僚、部下、人に恵まれました。仕事は厳しい面もありましたが、努力が報われいい職場でした。」
浮羽郡浮羽町小塩出身 福岡市西区で妻はまよさん(53)と長男の3人暮らし。
-1977年8月22日(月)毎日新聞朝刊掲載 -
義父は物静かで実に優しい人でした。脚が軽くて、家にいる時は、炊事場にも立つし、家の掃除、風呂の掃除、庭の掃除・・・よくしていました。怒った顔を見た事がありません。七福神の育さんの二人の娘も、おじいちゃん、おばあちゃん子で、とても可愛がってもらいました。二人の娘はおじいちゃんおばあちゃんの姿をみて育ったようなものです。
「とにかく人は誠実でなくちゃいかん。人に裏切られることはあっても、人を裏切るような事だけはしてはいかん。」
「小さな失敗はなんぼしてもいい。それが成長につながる。しかし、取り返しのつかない大きい失敗だけは絶対にしちゃいかん。それは一生かかっても容易には取り返せない・・・。」。義父の七福神の育さんへの教えでした。
関東軍での生死を彷徨う体験や31年の警察の事件畑での体験から行き着いた心底からの人生訓だったのでしょう。義父母にはいろいろと助けられました。ただただ感謝するばかりです。
今は仕事で無理ですが、七福神の育さんが70歳を過ぎて時間2余裕ができれば、義父母の歩いてきた足跡をたどって「本」を書いてみたいと思っています。
前篇はこちら⇒ http://mai196.blog65.fc2.com/blog-entry-40.html
(鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎)
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