川内川治水工事哀話(篠原治二氏コラム)
■愛と自己犠牲をおもう
4月の末、墓参りのため帰郷しました。故郷は、鹿児島県の薩摩川内市です。ぼくの知らないところはないかというと、墓守の姪っ子夫婦は川内川を河口まで車を走らせ、長崎堤防に案内してくれました。ある悲劇的な歴史の跡を見せるために。
■とうとうと流れる川内川の長崎堤防 川内川は、熊本、宮崎、鹿児島の3県にまたがる大河で、私は、川内ガラッパ(河童)の一人として生まれ育ちました。長崎堤防に着いて、びっくりしました。原子力発電所に近い河口手前約4キロ付近で、石積みの堤防は600㍍に及び、ノコギリの歯のような珍しいギザギザ型になっています。これは水の流れを抑制する昔の人の知恵でした。渡る川風が吹きすさぶ中、私は気持ちが高ぶり見て周りました。
■治水難工事に挑んだ小野仙右衛門
島津藩主から普請奉行に任命された小野仙右衛門によって320数年前の貞享4年(1687)に完成した堤防です。周辺の高江地区は川内川の水位よりも低い沼沢地であったので、この一帯を水害から守ると共に稲作ができる一大新田にするための築堤でした。治水工事は命がけでした。
いまのように機械はないから、多くの人夫が集められ、川底の地盤が弱いため築いては流され、また築きなおして8年がかり、ここで哀しい伝説は生まれました。
■難工事で愛娘を人柱に
ある夜、仙右衛門は「横はぎの着物をきた娘を人柱にたてよ」と夢のお告げを受けました。不思議なことに、同じ夢を見た17歳の娘、袈裟は覚悟のうえ着物にわざわざ横布をあてて繕い身を投じてしまう。仙右衛門は嘆き悲しみお告げのとおり長い縄を川に入れてみると、くねくねと流れ、その形に添って堤防を築いたところやっと完成したというのがあらすじです。
証拠はありません。だが、仙右衛門が崖の壁に彫ったといわれる「心」という文字はじっさいに残っていて、近くの人々は神社を建て遺徳を崇めています。国交省川内川河川事務所の専門調査員、中島純也さんに伺ってみると、ノコギリの歯型は日本では珍しく、効果の実証資料はないものの地域との精神的なつながりが評価され、土木遺産に指定されたという話でした。
いけにえについては、違ったバージョンもあるそうです。川内川上流の伊佐市には、逆に人夫を酷使した監督が計略にひっかかり、知らぬ間に横布の着物を着せられ人柱にされたという伝説も残っているとのこと。故郷の故事来歴はたいてい知っているつもりでしたが、考えてみると私が故郷にいたのは18歳のときまでで、何も知らなかったことに改めて気づきました。
■人柱神話に寄せられた美智子皇后のメッセージ
人柱伝説の人道的な良し悪しはおき、私はふと美智子皇后が1998年、国際児童図書評議会ニューデリー大会に寄せられたオトタチバナの姫の人柱神話に関する感動的なメッセージを思い出したのです。小さいころ父からもらって読んだ本の物語が忘れられないという趣旨でした。
6世紀の皇子ヤマトタケルの后、オトタチバナは遠征に同行し、海が荒れ危難に遭うと荒ぶる神を鎮めるため人柱として入水し夫を目的地に向かわせました。美智子さまは、美しい別れの歌を紹介しつつ、夫と任務を分かち合う意思的なものと感じたこと、愛はときとして過酷な犠牲を生む・・と綴っておられました。じつはこれ美智子さまのお覚悟と思えてなりません。
(以上、「ほとけの通信」より転載
■篠原治二(しのはら はるじ)氏のプロフィール 1953年、明治大学法学部卒業と同時に毎日新聞社入社。東京本社で事件記者として活躍後、福岡総局長、編集局長(西部)兼論説委員を歴任。コラムに独特の健筆をふるい、テレビ・講演などで親しまれる。著書「えんぴつ巷談」など多数。北九州市立文書館長、北九州市立大学講師、九州リゾート㈱社長を経て、現在毎日新聞社社友、日本マスコミュニケーション学会会員。福岡さつま川内会顧問。
県立川内高校の同窓・同期生に、園田健夫氏(KBC九州朝日放送の報道記者を経て同社専務取締役等歴任)がいる。
■薩摩国一宮「新田神社」と「可愛山稜」 川内には、アマテラスオオミカミ(天照大神)が「 地上は自分の子孫が治めるべきである」と考えて、地上を統治させるために派遣した天照大神の孫に当たる天孫降臨の邇邇芸命(ニニギノミコト)の墓を祀ったのが創始」とされる新田神社があります。
新田神社のある神亀山の5分の4が陵墓の領域で可愛山稜と親しまれ、宮内庁直轄の陵墓として、大正天皇、昭和天皇、今上天皇・美智子皇后はじめ多くの皇族の方々も参拝されています。神社と陵墓が一体となっているのは全国でも珍しい形態だそうです。
江戸時代、木曽川、長良川、揖斐川の三大河川の合流する岐阜県南部は大雨のたびに洪水に襲われ、多数の死者も出るなど、永年水害に悩まされ続けていました。このため、幕府は三大河川の治水工事を薩摩藩に命じ、 薩摩藩では、家老の平田靱負(ひらた ゆきえ)が総奉行となって約1,000人の藩士が工事にあたりました。忍耐と苦労を重ね、その当時わが国で最も大きく最も難しいといわれた難工事を、わずか1年半という極めて短い期間で完成させました。人・モノ・金の多大な犠牲を払いながら成し遂げた薩摩義士(さつまぎし)の遺徳は、今もその地域の人々に脈々と語り継がれ崇められています。
七福神の育さんが産まれ育った"ふるさと川内"にもこうした薩摩義士の遺徳があったと知り、あらためて鹿児島県人としての誇りを感じています。
わが故郷「薩摩川内市」は、歴史と文化に満ちて、山・川・海の自然に恵まれた素朴で心豊かな町です。ぜひ一度、ゆっくり訪れてみてください。新たな発見がきっとあなたの心を癒してくれるでしょう。
2013/6/9執筆。写真の一部は薩摩川内市のHPより掲載しました。
(鹿児島・山口・福岡応援団 / 地域交流飛翔会 / 新留育郎)
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